
岡﨑 俊雄
独立行政法人 日本原子力研究開発機構 理事長
- 1966
- 大阪大学工学部原子力工学科卒業
- 1997
- 科学技術庁 科学審議官
- 1998
- 科学技術庁 科学技術事務次官
- 2000
- 日本原子力研究所 副理事長
- 2004
- 日本原子力研究所 理事長
- 2005
- 日本原子力研究開発機構 副理事長
- 2007
- 日本原子力研究開発機構 理事長
1977年にソウル国立大学を卒業後、1981年、韓国科学技術院(KAIST)にて科学の修士号取得。1977年、韓国科学技術部としてのキャリアを始め、1987年まで、同部原子力科学技術政策室に所属。その後、欧州連合韓国政府代表部科学担当参事官、韓国科学技術部研究計画・技術協力課長、国務総理室放射性廃棄物管理室のプロジェクト・マネージャー、科学技術政策研究所の首席研究員、韓国科学技術部原子力安全・保障措置局長、同部基礎科学・人事局長、同部原子力局長、韓国科学技術部科学技術政策審議官、韓国大統領秘書官(科学技術担当)、ならびに国立科学博物館館長を歴任し、2006年に韓国原子力規制機構(NNCA)理事長に就任。その後、韓国核不拡散核物質管理院(KINAC)への改組に伴い、KINAC理事長として現在に至る。また、2007年1月からIAEA常設保障措置実施諮問委員会(SAGSI)委員を務める。
1975年、旧ソ連のモスクワ電気工学院を卒業。1977年、ベトナム原子力委員会の原子力研究所(ハノイ市)の研究者としてキャリアを始める。1990年には、旧チェコスロバキアのスロヴァク技術大学で博士号を取得し、1991年には、原子力局の副局長、1995年には、原子力センター(旧原子力局)のセンター長を経て、2002年2月、ベトナム原子力委員会の副委員長に就任、現在に至る。原子力計画策定、原子炉技術、及び原子力安全を専門とする。
インドネシアのガジャ・マダ大学にて地質学の学位を取得。また、フランス、ストラスブールのルイ・パスツール大学の地質学研究所にて、研究過程修了証書及び構造地質学博士号を取得。1977年、インドネシア原子力庁(BATAN)に地質調査取締役付き開発課の課長として入庁、キャリアを始める。1981-1984年、BATANにおける核物質探査・加工センターの地化学課の課長、その後、同センターの探査部長を務める。1989-1990年、同じくBATANのウラン鉱石開発センターの地質調査部長を経て、1990-1999年、同センター長を務める。1999-2002年には、BATAN企画部の部長を務め、2003年には、核物質技術工学開発担当のBATAN副長官に就任し、現在に至る。
フィンランドのヘルシンキ大学で放射化学を学び博士号を取得。フィンランド原子炉研究所の技術研究センターで上級研究員を務め、1983年からIAEA勤務。1999年から2002年まで保障措置A部の部長、2002年から2005年まで保障措置B部の部長を歴任。2005年7月から現職。
米国海軍兵学校卒業、核物理学で修士取得。連邦政府職員及びコンサルタントとして原子力研究開発計画のマネージメントに18年間携わるともとに、米国海軍の原子力推進計画における原子力船のチーフ・エンジニアとして20年間の経験を有する。
先進燃料サイクルイニシアティブ(AFCI)担当の部長を務めた後、現在は、GNEPの技術担当次長として、原子炉、燃料、分離、核変換工学、モデリングシミュレーション、システム分析を含む先進燃料サイクルに係る活動及びプロジェクト研究開発の統合を担当。
オーストラリア国立大学で哲学(化学)博士号取得。英国サセックス大学化学・分子科学スクール研究員を経て1992年、オーストラリア 外務通産省に入省。2001年から2004年までジュネーブ軍縮代表部の参事官及び常駐代表代理として、生物兵器禁止条約(BWC)ウェスタン・グループ議長、国連総会第一委員会やMTCR(ミサイル技術管理レジーム)においてオーストラリア政府代表団を率いるとともに、NPT再検討会議プロセスにも参加。2004年12月から2007年12月までIAEA事務局長の政策担当特別顧問を務める。2008年1月から現職。
1981年にローマ大学で学位取得(原子力工学)。イタリア原子力庁、欧州宇宙機関等において非破壊測定に関する業務に従事するとともに、ローマ大学准教授、米国ロスアラモス研究所の保障措置技術グループ客員研究員を歴任。1997年にIAEAに入り、保障措置局の機器開発課長、実施A部のセクション・ヘッドを経て、2006年9月から現職。
1975年にインドネシアのガジャ・マダ大学卒業後、1976年、放射線安全検査官としてインドネシア原子力庁に入庁。その後、放射線安全研究センター長(1993-1995年)、ウィーン代表部の科学担当官(1995-2003年)を経た後、2003年、インドネシア原子力規制庁の許認可・査察担当の副長官に就任、現在に至る。これまで、IAEA理事会をはじめとして、アジア原子力地域協力協定(RCA)の地域会合、核兵器不拡散条約(NPT)検討委員会、放射線防護及び放射性廃棄物安全に関する数々の国際会議に出席。また、インドネシア原子力規制庁の許認可・査察担当の副長官就任後も、放射性物質のセキュリティに関する国際会議、ASEAN核不拡散セミナー、原子力安全検討会議など、多数の国際会議に積極的に参加し、インドネシアの規制機関の代表として議論に貢献してきた。
1977年に動力炉核燃料開発事業団(動燃)のPu燃料開発部に入り、高速炉の「常陽」や「もんじゅ」のMOX燃料設計に関する研究開発を実施。1982年に外務省国連局原子力課に出向し、ポストINFCE、OECD/NEA、原子力技術・機器の輸出管理、日米原子力協定改定などの外交業務、そして1985年に在米国日本大使館の原子力・核不拡散分野の専門調査員として、原子力に関する日米関係、核不拡散問題の調査・分析、日米原子力協定の改正交渉などに従事した。その後、動燃に戻り1992年のPu粉末のフランスから日本までの海上輸送プロジェクトのグループリーダ、そして新たに設置された核不拡散対策室長に任命され、日本のPu平和利用とその透明性、核不拡散などに尽力。1998年、核燃料サイクル機構の経営企画本部企画グループリーダ、その後東京事務所次長、国際・核物質管理部長を歴任。現在、核不拡散と原子力平和利用の両立のため活躍中。
1986年、ミズーリ大学にて博士号取得。韓国原子力研究所(KAERI)で原子力のキャリアを開始し、博士号取得後は、主に使用済燃料及び保障措置に関する研究を担当。1992年、韓国政府の保障措置運用の技術支援部門として設置された韓国原子力安全技術院(KINS)の保障措置部長に就任、以後は核不拡散問題を専門とし、保障措置運用及び核物質防護に責任を有する。1994年、国の核不拡散活動を集中的に管理する目的でKINAC内に設置された核管理技術センター(TCNC)配属後は、数々の管理職の立場から、主に技術研究・開発、保障措置及び核物質防護における国際関係を研究。2002-2003年、米国のサンディア国立研究所の客員研究員として、朝鮮半島の地域的透明性向上及び朝鮮半島の核問題を研究。2004年、TCNCがKINS関連の韓国原子力規制機構(NNCA)に改組されたのに伴い、NNCAの核管理政策の主任を務める。2006年、NNCAの韓国核不拡散核物質管理院(KINAC)への改組に伴い、核管理部門の部長に就任し、現在に至る。
1987年コーネル大学で文学士、1990年ジョージ・ワシントン大学エリオット国際関係大学院で修士号を取得。不拡散及び軍備管理関係の非政府組織に在籍後、米国エネルギー省に入省。NNSA不拡散・国際安全保障部政策課長、輸出管理課長、不拡散・国家安全保障担当次官補付特別補佐官、国際政策分析課国際問題担当官等の要職を歴任。現在はNNSAの不拡散・国際安全保障担当次官補代理で、不拡散政策、軍備管理及び地域安全保障プログラムの責任者。
米国のローレンスリバモア研究所において、高性能腐食抵抗物質プログラムのサブリーダーを務め、核拡散抵抗性燃料サイクル技術プロジェクトリーダーを務める。核拡散抵抗性及び核物質防護ワーキンググループ、透明性モニタリング、米露高濃縮ウラン希釈プログラム、米露兵器プルトニウム処理プログラム等に携わった。
カルフォルニア大学バークレイ校で原子力核工学博士取得。スタンフォード大学国際安全保障協力センターのサイエンスフェローを務めた。1998年−2001年国際原子力機関(IAEA)に勤務。東京大学グローバルCOEの教授として本年3月着任。核不拡散の政策、核拡散抵抗性技術、国際保障措置、国際及び地域間の原力平和利用協力を専門とする。
旧動燃事業団(旧サイクル機構)にて20年にわたり再処理工場の分析所に勤務、同工場へのIAEA保障措置対応体制の確立を始め多くの保障措置技術開発に携わった。またピューレックス再処理プロセスの安全性に係る基礎化学的研究にも従事。同工場の分析課長を経て、1999年から7年間にわたりIAEAに勤務。IAEAでは保障措置分析所(サイバースドルフ)所長として核物質申告値検認のための分析並びに未申告活動有無を検証するための環境サンプリングのための分析業務に従事した。その間、イラク、イラン、リビアなどの国々における未申告活動の疑惑事象の解明に深く関与した。
2006年7月帰国。現在は日本原子力研究開発機構の核不拡散科学技術センター次長 兼 研究主席。東京大学大学院教授(委嘱)原子力国際専攻を兼任。工学博士(東京大学、放射線化学/核物質分析)。
マレーシア国民大学にて科学士号、カナダのマックマスター大学にて科学修士号、イギリスのスコットランド大学付属研究炉センター及びグラスゴー大学にて高レベル放射性廃棄物管理分野において博士号を取得。1978年に旧マレーシア原子力庁(MINT)(現マレーシア原子力局)に入庁後は、組織発展の先駆者の1人として貢献し、2004年9月、マレーシア原子力局長官に任命され現在に至る。IAEA放射線及び廃棄物安全の研修・教育に関する諮問及び運営委員会のメンバーであり、また、IAEAの枠組みの中で、アジア・太平洋地域のメンバー国による自立した持続可能な原子力制度プログラムの確立に向けた専門家ミッションを任命される。これまでに、国内外の会議・ジャーナルなどで50以上に及ぶ技術論文を発表し、本「原子力科学技術」の編集責任者も務める。科学を専門とする非政府組織にも深く関わっており、マレーシア放射線防護協会の会長、ならびにマレーシア科学研究者協会の副会長も務める。
チュラロンコーン大学にて物理科学の学士号及び原子力技術工学の修士号を取得。IAEAフェローシップを通じ、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校では核計装について、ドイツのカールスルーエでは原子力発電プロジェクトの計画・実施について学び、また、フランス留学生受入れ機関ASTEFフェローシップを通じ、フランスのサクレイ放射性廃棄物管理CENに参加。1963-1975年、原子力科学者としてタイ原子力庁勤務。1976年、アメリカのアリゾナ大学の原子力工学部に客員教授として着任後、1977-1981年、タイのチュラロンコーン大学工学部教員及び原子力技術学部の准教授を務める。1981-2000年、IAEAの原子力査察官を経て、現在は、「Nuclear Society of Thailand:タイ原子力社会」の会長、タイ原子力技術研究所(TINT)の実行委員会顧問、エネルギー省の原子力安全・保障措置、環境問題、原子力発電開発室の顧問、ならびに原子力専門家として行政事務専門委員会の委員を務める。
米国空軍士官学校で理学士(航空工学)、ウェブスター大学で修士号(経営)取得。
米国空軍でパイロットとして活躍、大尉で退役後、1984年に宇宙飛行士として航空宇宙局(NASA)に入局。1991年、宇宙と生命科学に係るニューロラブ計画のSTS-40 Spacelab Life Sciences (SLS-1)でパイロットとしてスペースシャトル・コロンビアに搭乗、1994年には地用探査用のレーダー実験に係るSTS-59 Space Rader Laboratory (SRL-1)で船長としてスペースシャトル・エンデバーに搭乗。NASA宇宙安全諮問委員会や国際宇宙ステーション開発能力とコスト評価のための委員会の委員等を歴任するとともに、その功績によりNASA等から種々のメダルを授与されている。
2回目のスペースシャトル搭乗後、故郷のニューメキシコ州アルバカーキーに戻り、サンディア国立研究所(SNL)に入所。SNLの核拡散評価プログラムのマネージャー、システム評価研究センター長を経て、現在、原子力・国際安全保障技術センター長。同センターは、核燃料サイクル技術の開発等を通じて国家安全保障に寄与するとともに、持続可能エネルギーへの移行や環境基準の向上、テロによる脅威や大量破壊兵器の拡散削減などに貢献している。