カーター政権の核不拡散政策、INFCEと「ふげん」 |
昭和52年1月に誕生した米国カーター政権は、核不拡散を強化する政策、すなわち使用済燃料の再処理によってプルトニウムを取り出して原子力発電で用いて行くことを禁止する政策を掲げました。濃縮ウランを米国から輸入していたわが国は、日米原子力協定の中で、再処理にあたっては米国の了解を得ることとなっていたため、ちょうどその頃、運転を開始しようとしていた東海の再処理工場の操業にストップがかけられました。それ以降、包括事前同意方式の日米原子力協定が発効する昭和63年7月まで、長い日米間の交渉がスタートすることになりました。
カーター政権の核不拡散政策が発端になって、世界66カ国が参加して核不拡散上どのような核燃料サイクルが良いかなどを国際的に協議するINFCE(国際核燃料サイクル評価)が昭和52年10月から、昭和55年2月まで開催されました。
この時期は、「ふげん」が初装荷炉心からMOX燃料を装荷して運転を開始したときであり、日本の新型転換炉における核燃料サイクルを発表し、国際的な理解を得る上でINFCEは、とても良い機会になりました。
米国エネルギー省は、INFCEに発表された論文を基に評価される各国の原子力政策について委託調査を行っています。その中で、委託を受けたある米国のシンクタンクは、日本がINFCEで発表した一連の論文から、日本の新型転換炉開発を“「ふげん」は日本の原子力政策を写す鏡”(“FUGEN : A MIRROR OF JAPAN'S NUCLEAR POLICY”)と評価した報告書をまとめて、昭和55年1月にエネルギー省に提出しています。 |
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