令和7年10月9日
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
公益財団法人環境科学技術研究所

福島近海に生息するヒラメ体内のトリチウム量を推定する
―2つのシミュレーションモデルの組み合わせで魚への影響評価を可能に―

【発表のポイント】

図1 本研究の概要

【概要】

東京電力福島第一原子力発電所(以下、「1F」)の事故により、1Fの敷地内には各種の放射性物質を含んだ汚染水が存在します。この汚染水は多核種除去設備(ALPS)などを用いて放射性物質濃度を低減する浄化処理が行われ、敷地内のタンクにALPS処理水として保管されています。この浄化処理によって、トリチウム以外の放射性物質を安全基準を満たす(規制基準値未満)まで取り除くことができます。一方、今後本格化する廃炉作業を安全に進めるため、新施設を建設する場所が必要で、ALPS処理水を処分し、保管タンクを減らす必要があります。そのため、2023年8月にALPS処理水の海洋放出が開始されました。放出前に大量の海水で希釈してトリチウムが規制基準濃度を下回ること、さらに放出する総量を確認しながら放出されています。

環境中におけるALPS処理水の影響を把握するため、東京電力や、環境省および原子力規制庁といった国の関連機関などにより、海水と海産物中のトリチウムを含む放射性物質濃度のモニタリングが実施され、測定結果は随時公開されています。これらのモニタリングにより取得されるデータは高精度ですが、一定期間内に取得可能なデータ数に限りがあり、時空間的に連続した影響評価が困難という課題があります。一方で、シミュレーションモデルは時空間的に連続したデータを作成できますが、計算されたデータは誤差を含むため、モニタリングデータなどと比較してその精度を検証する必要があります。このため、モニタリングとシミュレーションモデルを融合した補完的な影響評価は、ALPS処理水の影響を包括的に把握する有効な手法と考えられます。

本研究では、福島近海におけるALPS処理水中のトリチウムの動きについて精緻な計算ができるシミュレーションモデル「海洋拡散モデル」を活用し、時空間的に連続した海水中の分布状況の推定を可能にしました。さらに、このモデルに海水から生態系へのトリチウムの移行を計算する「生態系移行モデル」を組み合わせることで、海産物についても時空間的に連続した濃度推定が可能になりました。推定の結果、ALPS処理水の影響下にあるヒラメを継続的に摂取したとしても、ALPS処理水由来のトリチウムによる人体への影響はほとんどないことが分かりました。

1Fの廃炉作業に伴い、今後数十年にわたりALPS処理水の海洋放出は断続的に行われる見込みです。この間、海洋放出による風評影響の排除と環境影響へのリスク管理を適切に行う必要があり、本研究で考案した推定手法はALPS処理水に起因するさまざまな海産物への影響を推定するために活用できると考えられます。

なお、本成果は国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長:小口正範、以下、原子力機構)原子力科学研究所 原子力基礎工学研究センター環境動態研究グループの池之上翼研究員、川村英之リーダー、公益財団法人環境科学技術研究所(理事長:島田義也、以下、環境技研)環境影響研究部の谷享副主任研究員、佐藤雄飛副主任研究員によるものです。

本成果は、アメリカ化学会の国際学術誌「Environmental Science and Technology」のオンライン公開版(9月21日付(現地時間))に掲載されております。

【これまでの背景・経緯】

1F事故によって発生した高濃度の放射性物質を含む汚染水は、トリチウム以外の放射性物質の安全基準を満たすまで浄化され、ALPS処理水としてタンクに保管されています。トリチウムの大部分は水と同様の化学的性質を有するトリチウム水として存在するため、汚染水から分離することは極めて難しく、結果としてALPS処理水にはトリチウムが残存します。

今後本格化する廃炉作業に必要な新しい施設を建設するため、ALPS処理水を処分し、保管しているタンクを減らす必要があります。そのため、政府はALPS処理水の海洋放出を実施することを基本方針として定め、2023年8月に海洋放出が開始されました。ALPS処理水中のトリチウム濃度は厳格に管理され、国の安全基準(規制基準)の40分の1未満、世界保健機関(WHO)の飲料水基準の約7分の1未満という厳しい値が設定されています。実際に、これまでの海洋放出に伴う海水モニタリングでは、放出口付近を含めて高濃度のトリチウムは検出されておらず、海洋放出の安全性が十分に担保されていると考えられています。

海水モニタリングと共に、経口摂取による人体への直接的な影響がありうる海産物についても、漁業などへの風評影響の防止の観点から、トリチウム濃度について調査する必要があります。現在まで海産物のモニタリングで高濃度のトリチウムは検出されていないことから、ALPS処理水に起因した海産物へのトリチウムの蓄積はほとんどないと考えられています。一方で、一定期間にモニタリングで把握できる海産物の数には限りがあるため、海産物への影響を網羅的に把握することは難しいと考えられます。

このような問題への解決策として、先行研究の知見と実測データに基づいたシミュレーションによる時空間的に連続した計算データを活用し、海産物へのトリチウムの蓄積度合いを推定することが考えられます。本研究では、原子力機構が開発した海水中のALPS処理水に含まれるトリチウムの動きを計算する「海洋拡散モデル」と、環境技研が開発した海水から海産物へのトリチウムの移行を計算する「生態系移行モデル」を組み合わせることで、推定を可能にしました。

【今回の成果】

ALPS処理水に含まれるトリチウムは海水中を移動する中で大幅に希釈されながら、その一部は生物中に比較的長時間保持される化学形態である有機結合型トリチウム(以下、「OBT」)1)として海産物に留まる可能性があります。本研究では、非回遊性であり、東北地方の重要な水産資源であるヒラメに着目し、以下の手順でALPS処理水のヒラメへの影響を解析しました。

①海水中トリチウム濃度の推定
「海洋拡散モデル」は、海流や水温などの海況の計算結果に基づいて海水中のトリチウムの動きを推定します(図2)。本研究では、2023年1月から12月までを計算対象期間とし、実際の放出条件(放出量、放出継続期間など)に基づいてALPS処理水が放出されたと想定して、福島県近海の海水中トリチウム濃度を推定しました。

②ヒラメ中トリチウム濃度の推定
「生態系移行モデル」は、海水からヒラメへの移行およびプランクトン~小魚~ヒラメ間の食物連鎖を通じた移行の各々を考慮して、ヒラメ中のトリチウム濃度の時間変化を計算します(図2)。本研究では、「海洋拡散モデル」で計算した海水中トリチウム濃度を、この「生態系移行モデル」に入力することで、ヒラメ中トリチウム濃度を推定しました。

図2 シミュレーションモデルの概念図

推定結果の妥当性を検証するため、海況の代表的指標である海水温について、計算値と観測値を比較しました。検証の結果、観測値と良く一致することが確認されました(図3)。これは、本研究による推定が海水中のトリチウムの動きを含む海況を適切に再現していたことを意味します。

図3 福島近海における2023年3月の表層水温(左)と2023年の底水温(右)における計算値と観測値との比較

2023年の1年間をモデルの計算期間と設定し、同期間に1Fから約5-60kmの範囲に生息していた平均的なヒラメ中のOBT濃度を推定しました(図4)。その結果、OBT濃度は最大で0.033 Bq/Lでした。これらの値はモニタリングで検出できる最低濃度(0.21 Bq/L)よりも約一桁低く、ALPS処理水に由来するトリチウムがヒラメに蓄積する度合いは、モニタリングでは捉えられないほど小さなものであることを示唆しています。また、福島近隣の雨水や河川水で観測されるトリチウム濃度(0.24-0.81 Bq/L)と比較しても一桁ほど低いことから、ALPS処理水のトリチウムがヒラメに蓄積する度合いは非常に小さいと考えられます。

図4 各評価地点(左)に生息するヒラメに含まれる最大OBT濃度の推定結果(右)

ヒラメ中で推定された最大OBT濃度とトリチウム水濃度を用いて、このヒラメを日本人が1年間毎日190グラム摂取し続けた場合(比較的魚を多く摂取する日本人を想定)、被ばく線量2)は0.55 nSvと推定されました。この値は国際放射線防護委員会3)の定めた1年間の一般公衆の被ばく線量の基準値である1,000,000 nSvと比べ、極めて低い値です。このことは、福島近海に生息するヒラメを摂取しても人体への影響はほとんどないことを明確に示しています。

【今後の展望】

本研究で開発したシミュレーションモデルによって、将来のALPS処理水放出時におけるヒラメ中のトリチウム濃度を予測することが可能となります。また、考案した推定手法はヒラメ以外のさまざまな海産物への適用も可能なため、海産物の安全性を短中期的に確認することで、風評影響の防止対策の一助になることが期待できます。

【論文情報】

タイトル:Negligible tritium accumulation in Japanese flounder from treated water released from Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant: A numerical simulation study

雑誌名:Environmental Science & Technology

URL:https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.est.5c04474

著者:池之上翼1、谷享2、川村英之1、佐藤雄飛2
(1日本原子力研究開発機構、2環境科学技術研究所)

【各機関の役割】

  1. 日本原子力研究開発機構
    海洋拡散モデルの計算(池之上、川村)、データ分析(池之上)、計算結果の可視化(池之上)、論文執筆(池之上、川村)
  2. 環境科学技術研究所
    発案と監修(佐藤)、トリチウム移行モデルの計算(谷)、データ分析(谷)、論文執筆(谷、佐藤)

【助成金の情報】

本研究による成果は、青森県からの委託事業および環境省が実施する放射線の健康影響に係る研究調査事業から一部助成を受けました。

【用語の説明】

1) 有機結合型トリチウム(OBT: Organically Bound Tritium)

体組織中の有機物と化学的に結合しているトリチウムで、生物体内に水としてふるまう自由水型トリチウムと比べ、体内に長く留まることが知られています。そのため、人が摂取した場合、OBTの被ばく影響は自由水型トリチウムよりも大きくなります。

2) 被ばく線量

人体が放射線にさらされることを被ばくと呼び、被ばくした放射線の量を被ばく線量といいます。本研究では、放射線の種類、組織や臓器の放射線の感受性を考慮した「実効線量」を被ばく線量としています。

3) 国際放射線防護委員会(ICRP: International Commission on Radiological Protection)

専門家の立場から放射線防護に関する勧告を行う非営利の国際学術組織です。ICRPの報告は、各国の法令策定や防護の実務に活用されています。

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