令和7年10月2日
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
一般財団法人総合科学研究機構

重水素で進化するアミノ酸
―水素の同位体「重水素」が紫外線に負けないアミノ酸を生み出す―

【発表のポイント】

【概要】

アミノ酸[1]の重水素化(重水素ラベル化)は、医薬品開発の現場や中性子散乱による構造生物学[2]など、幅広い研究分野で求められています。しかし、従来法では合成コストが高く、高効率な重水素導入や光学異性体[3]分離、大量合成が難しいという課題がありました。これらを克服するため、より実用的な手法の開発が強く望まれていました。

本研究では、人体でタンパク質の材料となるアミノ酸20種類を対象に、人工的に水素を重水素[4]に置き換える実験を行いました。種類が異なるアミノ酸に対して最適な白金族触媒[5]や反応条件を見出すことで、13種類のアミノ酸を効率よく、かつ安定的に重水素化することに成功しました。本手法では光学異性体も生成し混合物となりましたが、光学異性体分離カラムで単離することもできました。

このうち、健康食品や医薬品分野で注目されているアミノ酸の一つであるトリプトファン[6]に注目し、その重水素化体である重水素体トリプトファンについて、物理的性質や構造の詳細な評価を実施しました。その結果、トリプトファンは重水素化することで、紫外線に対して分解されにくくなることを明らかにしました。

今回確立した手法により、重水素化アミノ酸を安定的に供給できる基盤が整いました。医薬品開発や、中性子を用いた構造生物学研究の加速が期待されます。さらに、重水素化による光安定性の向上を活かし、品質の安定した薬剤や高耐久性バイオマテリアルの創製への応用展開も視野に入ります。

本研究は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長:小口正範、以下原子力機構)、J-PARCセンター物質・生命科学ディビジョンの柴崎千枝研究員、奥隆之セクションリーダー、一般財団法人総合科学研究機構(理事長:横溝英明)の阿久津和宏副主任技師、杉山晴紀研究員、上田実咲技師、国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(以下QST)の安達基泰グループリーダー、欧州研究インフラコンソーシアムESS、ルンド大学のZoë Fisherグループリーダーによるものです。

本研究成果は、9月16日付(日本時間)の国際学術誌「Bioengineering」に掲載されました。

【これまでの背景・経緯】

タンパク質やペプチドは生命活動を支える中心的な分子であり、医薬品開発や構造生物学研究の重要な対象です。多種のアミノ酸が鎖状につながったペプチドや、数十個以上がつながり立体的な構造をとるタンパク質は、筋肉や皮膚など身体を形作るだけでなく、酵素として食物の消化を助けたり、免疫やホルモンの前駆体[7]として生理機能を調節する役割も担っています(図1)。

図1 タンパク質・ペプチド・アミノ酸とは何か

図2 アミノ酸の構造
(Rは「側鎖」と言われる部分)

ほとんどのアミノ酸はその分子構造の特徴から光学異性体が存在し、L体とD体に区別できます(図2)。自然界に存在するアミノ酸はほとんどがL体アミノ酸です。一方で、D体アミノ酸は、細菌の細胞壁ペプチドや一部の海洋生物、哺乳類の脳内ペプチドなど、限られた場面でしか検出されません。その存在量もL体に比べてごく少量で、生合成経路も特殊です。一部のD体アミノ酸は抗菌作用や、微生物からの分解耐性などの特徴を持つと言われていますが、統一的な研究は進んでいません。

また、化学反応時に生成する光学異性体の割合の制御や単離には、高度な分析・分離技術が不可欠です。したがって、L体とD体の混合物から片方を取り出す技術は、基礎研究から医薬品、新素材開発に至るまで、重要かつ難易度の高いテーマです。

近年、アミノ酸の水素原子(1H)を重水素(2H)で置き換えた「重水素化アミノ酸」が注目されています。すでに製薬分野では、薬物動態解析[8]代謝トレーシング[9]といった分析に用いられている一方で、重水素化された分子は軽水の分子よりも結合が強くなるため、分子の分解や代謝が遅くなり、安定性が高まるという特徴を利用した「重水素化医薬品[10]」開発も加速しています。また、タンパク質の構造を詳しく調べる手法の一つである「中性子散乱実験[11]」においては、標的分子の重水素化が観測精度を大幅に高めるため、欠かせない技術となっています。

しかし、重水素化がアミノ酸やペプチドの性質、特に光安定性や酸安定性といった基礎的な物性に及ぼす影響については、知見が限られており、十分には理解されていません。

従来のアミノ酸重水素化法にはいくつかのアプローチがあります。重水素化試薬を組み込んで分子を一から合成する「化学合成法」、重水で微生物を培養してアミノ酸を得る「発酵法」、通常のアミノ酸を重水存在下で酵素や有機触媒[12]により変換する方法などです。しかし、それぞれにメリット・デメリットがあります。特に、アミノ酸の側鎖(図2)を含めた広範な重水素化や、反応中に起こる光学異性体の混合を考慮した光学異性体分離については報告例が限られています。そのため、実用的で効率の高い重水素化手法の開発が強く求められてきました。

【今回の成果】

本研究では、白金族触媒と2-プロパノールを用いた水素-重水素直接交換反応[参考文献 1]によって、タンパク質を形作るのに必要な20種類のアミノ酸を対象に重水素ラベル化を試みました。その結果、反応条件(温度・時間・添加剤・触媒の種類)を最適化することで、13種類のアミノ酸において高い重水素化率(平均重水素化率50%以上)かつ高収量(グラムスケール)の重水素化を実現しました。特に、アラニン・バリン・フェニルアラニン・トリプトファン・チロシン・ヒスチジン・プロリン(図3)など、市販では高価な重水素化アミノ酸を高効率で合成できたことは、実用的観点から大きな意義があります。

図3 高効率の重水素化に成功した、市販では高価なアミノ酸

トリプトファンは神経伝達物質であるセロトニンやメラトニンの前駆体で、単体でも健康食品や医薬品分野で注目されているアミノ酸です[参考文献2,3]。本研究では、L体トリプトファンを材料にし、その重水素化率は73.1%を達成しました。一方で光学異性体が生成され、重水素化トリプトファンの半分はD体となりました。そこで、光学異性体分離カラムを用いてL体とD体の分離を行い、これまで市販されていない重水素化D体トリプトファンの単離にも成功しました。

さらに、得られた重水素体トリプトファンの物性を調べました。トリプトファンは紫外線を吸収するとインドール環[13]が分解されるため、他のアミノ酸に比べて光に不安定であるという問題があります。軽水素体と重水素体を比較すると、酸による分解速度には大きな差はありませんでしたが、紫外線を照射した場合には光分解速度が明らかに低下していることが分かりました。つまり、重水素化によって光分解が大幅に抑えられることが確認されました(図4)。

図4 トリプトファンの紫外線照射実験

重水素体と非重水素体のトリプトファン結晶構造をX線による構造解析[14]を用いて比較したところ、結合長や結合角、分子間距離に大きな差は認められませんでした。重水素化はトリプトファンの結晶構造そのものに大きな影響を与えないことが確認されました(図5)。

まとめると、本研究により「効率的で汎用性の高いアミノ酸の重水素化法を確立」し、「従来は入手困難だった重水素化D体アミノ酸を単離」、「重水素化によるアミノ酸の光安定性の向上」という新しい知見を得られたことになります。

図5 重水素体トリプトファンの結晶構造

【今後の展望】

本研究では、これまで困難であった側鎖を含めたアミノ酸全体の重水素ラベル化法を確立することができました。これは、基礎研究から応用研究まで幅広く活用できる基盤技術となります。特に、従来高価で入手困難な重水素化アミノ酸を安定供給できることは、創薬研究や中性子散乱実験におけるサンプル調製のコスト削減と利便性向上につながります。

さらに、今回初めて分離・単離に成功した重水素化D体トリプトファンは、市場では入手困難な化合物であり、今後は医薬品や機能性食品、新素材としての応用が期待されます。同時に、重水素化による光安定性の顕著な向上という性質は、紫外線や外部環境下での劣化を抑制できる点で、バイオマテリアルや製剤開発に有用です。

今後は、より高い反応性や重水素化位置選択性をもつ触媒、反応条件の探索を進め、熱で分解しやすいアミノ酸や白金族触媒へのダメージが大きい硫黄含有アミノ酸への適用拡大という課題解決を目指します。加えて、ペプチドやタンパク質などの高分子への直接的な重水素導入や、タンパク質への部分的・部位選択的な重水素ラベル化の技術開発にも取り組み、機能性分子の設計や次世代の医薬・材料開発も視野に研究を進めます。

【論文情報】

雑誌名:Bioengineering

タイトル:Development of the Direct Deuteration Method for Amino Acids and Characterization of Deuterated Tryptophan

著者名:Chie Shibazaki 1*, Haruki Sugiyama2, Misaki Ueda3, Takayuki Oku1, Motoyasu Adachi4, S. Zoë Fisher5,6, Kazuhiro Akutsu-Suyama 3*

所属:1:原子力機構 J-PARCセンター、2:総合科学研究機構 中性子産業利用推進センター、3:総合科学研究機構 中性子科学センター、4:QST 量子生命科学研究所、5:欧州研究インフラコンソーシアムESS、6:ルンド大学

DOI:10.3390/bioengineering12090981

【各機関の役割】

【参考文献】

[1] Sawama, Y.; Park, K.; Yamada, T.; Sajiki, H. New gateways to the platinum group metal-catalyzed direct deuterium-labeling method utilizing hydrogen as a catalyst activator. Chem. Pharm. Bull. 2018, 66, 21–28.

[2] Young, S. N.; aan het Rot, M.; Pinard, G.; Moskowitz, D. S. The Effect of Tryptophan on Quarrelsomeness, Agreeableness, and Mood in Everyday Life. Int. Congr. Ser. 2007, 1304, 133–143.

[3] Hartmann, E. Effects of L-Tryptophan on Sleepiness and on Sleep. J. Psychiatr. Res. 1982–1983, 17 (2), 107–113.

【助成金の情報】

本研究はJSPS科研費(「21K05121」)、及びJAEA旧萌芽研究開発制度の助成を受けました。

【用語の説明】

[1]アミノ酸

タンパク質をつくる小さな部品であり、側鎖の異なる20種類のアミノ酸が数多くつながって立体的に形を作ることでタンパク質になります。それぞれの並び方や組み合わせの違いによって、体内で働く多様なタンパク質が生み出されます。

[2]構造生物学

生物の中にある原子や分子の、形や並び方を調べる学問の一つです。例えば、タンパク質分子同士の相互作用やタンパク質自体の立体構造を明らかにすることで、疾患の原因解明や新薬の開発、新しい材料の開発などに貢献しています。

[3]光学異性体

分子を構成する原子やそれらのつながり方が同じでも、鏡に映したように形が左右逆になっていて、重ね合わせることができない関係にある分子のことを指します。例えば、人間の右手と左手のような関係です。多くのアミノ酸には光学異性体があり、生物の体をつくるタンパク質はほとんどがL体と呼ばれる一方の型でできています。光学異性体は同じように見えますが、体内での働きや薬の効き方、味や香りなどが大きく異なる場合があります。そのため、医薬品や食品の研究・開発においては、どちらの型であるかを正しく区別することが重要です。

[4]重水素(重水素 2H)

水素の「仲間(同位体)」の一つで、ふつうの水素(軽水素 H または1H)は原子の中心に小さな粒(陽子)を1個だけ持っていますが、重水素はそこに「中性子」という粒が1個加わり、2倍の重さになっています。そのため「重い水素=重水素 (2H)」と呼ばれます。この違いのおかげで、重水素を含む水(重水)には、普通の水とは違った性質があり、エネルギー開発に関連した科学研究や、さらには体内の仕組みを調べる道具として利用されています。

[5]白金族触媒

触媒とは、自らは反応の前後で変化や消費をほとんど受けずに、化学反応の速度や、特定の生成物の量を制御する物質のことを指します。つまり、反応を助ける潤滑油のような役割を果たし、繰り返し利用できるのが特徴です。

本研究に使った白金族触媒とは白金(Pt)、ルテニウム(Ru)など白金族元素を材料にした触媒です。これらは化学反応を効率よく進める高い活性と選択性、そして過酷な条件下でも働く安定性を兼ね備えています。

[6]トリプトファン

トリプトファンは、人体を作るアミノ酸20種類のうちの一つです。体内で合成できない「必須アミノ酸」で、食べ物から摂る必要があります。側鎖に「インドール環[13]」という独特の構造を持っており、このおかげで光を吸収しやすく、研究にもよく使われます。

[7]免疫やホルモンの前駆体

前駆体とは、体の中で「材料」の役割をする物質です。免疫物質やホルモンは、いきなり完成品として作られるのではなく、前駆体が準備され、それが変化して働ける形になります。例えば、トリプトファンが加工されてセロトニン(神経伝達物質)、メラトニン(睡眠に関わるホルモン)になるように、前駆体は「最初の出発点の物質」として大切な役割を担っています。

[8]薬物動態解析

薬を飲んだ後、体の中でその薬がどのように振る舞うかを調べる解析方法です。例えば、薬がどれくらい吸収されるか(胃や腸から血液へ入る量)、どこに運ばれるか(脳や肝臓など)、どのくらいの速さで分解されるか(肝臓などで代謝される)、体の外にどう出ていくか(尿や便として排出される)などです。これらを調べて、薬の効き目や副作用の強さを予測したり、安全な投与量を決めたりします。

[9]代謝トレーシング

「トレーシング」とは「たどる、追いかける」という意味です。代謝トレーシングは、食べ物や薬などが体の中でどんな道筋を通って変化していくのかを追いかける方法です。例えば、アミノ酸が、タンパク質に組み込まれるまでの流れを「重水素でしるし(ラベル)」をつけて調べます。

[10]重水素化医薬品

医薬品分子に含まれる水素原子の一部を、重水素に置き換えた薬のことを指します。水素を重水素に換えても分子の基本的な形や働きはほとんど変わりませんが、結合の強さがわずかに増すため、体内での分解のされ方が変化します。その結果、薬が長く安定して体内にとどまったり、副作用が軽減されたりすることが期待されます。

実際に、海外ではいくつかの重水素化医薬品が承認されています。2017年米国で承認されたハンチントン病治療薬「Austedo®」は、重水素化によって代謝が遅くなり、服用回数が少なくて済むようになりました。また、がんや炎症性疾患などに対する重水素化医薬品も開発が進められており、臨床試験の段階にあるものも複数存在します。このように、重水素化医薬品は既存の薬の性質を大きく変えずに改良できる点が魅力であり、今後ますます応用範囲が広がると期待されています。

[11]中性子散乱実験

中性子散乱実験とは、中性子という粒子を物質に当てて、その散らばり方(散乱)を調べる実験です。中性子はとても小さいうえに物質の奥まで入り込めるので、普通の光や顕微鏡では見えない“原子や分子の並び方・動き方”を知ることができます。これによって、タンパク質などの生体分子の仕組みから新しい電池・材料の開発に役立つ情報まで、幅広い研究が進められています。

[12]有機触媒

有機化合物は炭素を骨格として水素や酸素、窒素などの原子が結びついた物質で、触媒として働く場合を有機触媒と呼びます。

[13]インドール環

トリプトファンの側鎖部分の環状構造のこと(赤丸で囲んだ部分)を指します。

[14]X線による構造解析

目に見えない原子や分子の並び方を調べるための方法です。とても短い波長の光であるX線を物質に当てると、X線は物質内部の構造と作用して散らばり(散乱し)ます。さらに、散乱されたX線の一部は波のように強め合ったり弱めあったりする(回折する)ため、独特のパターンをつくります。そのパターンを解析すると、分子がどんな形をしているのか、原子がどのように並んでいるのかを知ることができます。

参考拠点:J-PARCセンター
戻る