令和7年8月29日
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
国立研究開発法人理化学研究所
2枚の金属平板を数マイクロメートル程度離して置くと平板間に微小引力が発生する現象は「カシミール効果(カシミア効果)」[1]と呼ばれ、一見して何もないように見える真空からでも発生するエネルギー(圧力)として物理学の分野では有名です。近年ではわずかな力を精密に制御する微小デバイスへの応用が期待されています。この現象の本質は、私たちが日常的に触れている古典力学では説明することのできない、微視的世界に特有の量子力学[2]の性質に由来するものです。
このような真空から生じる圧力(通常の意味でのカシミール効果)は絶対零度でも現れますが、室温では熱的な圧力が上乗せされるため、温度の効果(熱的なカシミール効果)を統合する理論はよく知られていました。本研究では、理論研究によって、真空から生じる圧力と熱的な圧力だけでなく、物質自体から発生する圧力(物質圧によるカシミール効果)までをも統一的に記述する基本公式を発見しました。この公式の適用例として、電子やクォークなどの「フェルミ粒子」[3]で構成される薄膜状の物質に着目し、その内部での真空圧と物質圧の様相を記述することに成功しました。さらに、物質圧の効果によって薄膜の厚さに依存して引力・斥力が交互に出現する現象を新たに予言しました。
カシミール効果によって発生する引力は微小デバイス(MEMSなど)への応用が期待されていますが、引力だけでなく斥力をも自在に制御することは重要な課題です。本研究によって発見した原理は、薄膜状物質を用いた新たな量子技術への応用が期待されます。
本研究は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 小口正範)原子力科学研究所先端基礎研究センター先端理論物理研究グループの藤井大輔博士研究員と鈴木渓研究員、国立研究開発法人理化学研究所計算科学研究センター連続系場の理論研究チームの中山勝政特別研究員からなる共同研究グループによるものです。
本研究成果は、学術誌「Physics Letters B」2025年9月号掲載に先立ち、オンライン(7月24日付)で掲載されました。
1948年にカシミール(H. B. G. Casimir)が予言したカシミール効果は、2枚の金属平板を数マイクロメートル程度離して置くと平板間に微小な引力が発生する現象です(図1左)。引力が発生するということは、微小な構造の中で働く力を高精度に制御したい際に役立ちます。実際、カシミール効果を利用した応用技術は圧力センサーや圧力変換素子などの微小デバイス(MEMS)で議論され始めており、いわば「カシミール・エンジニアリング」と呼ばれる新分野が創成しつつあります。カシミール効果の起源は真空中に内在する「ゼロ点エネルギー」[2]と呼ばれる量子力学的なエネルギーであり、一見して何もないように見える真空からでも発生する圧力という意味で「真空圧」と呼べます。
カシミール効果の予言に続いて1956年にリフシッツ(Y. M. Lifshitz)は、カシミール効果によって発生する圧力と熱エネルギーによる圧力を統合する公式を発見しました(図1中央)。この「リフシッツ公式」は、カシミール効果研究における標準的な理論として世界中で幅広く活用されています。通常のカシミール効果は真空中に内在する光子を源とし、絶対零度でも生じることは一つの強みですが、現実的な実験室では室温の効果は避けられません。したがって、熱的な圧力をも含めた統一的な理論は、現象の正確な理解や高精度の制御のために必須です。
ところで、光子は通常は物質をつくらない粒子です。私たちの身の回りにある通常の物質は「フェルミ粒子」[3]から構成されます。光子の場合と同様に、真空中に内在するフェルミ粒子からもカシミール効果は生じますが、フェルミ粒子が物質を構成している場合はどうでしょうか。この場合、真空中からの圧力や熱的な圧力のほかに、「物質によって発生する圧力」が生じているはずです。これまでのカシミール効果研究では光子が主役であったため「物質によって発生する圧力」(図1右)を考える必要はなく、そのような理論も存在しませんでした。
本研究で着目したのは光子ではなく、電子やクォークなどの「フェルミ粒子」が物質を構成する状況でのカシミール効果です。さらに、通常の物質は3次元的に広がっていますが、本研究ではフェルミ粒子からなる物質が薄い膜(薄膜)になった状況に注目しました(図2)。通常のカシミール効果は、真空中の光子が平行板に挟み込まれることで真空圧が生じる現象です。これと同様に、物質内部のフェルミ粒子は、薄膜化されるとカシミール効果のような内圧を発生させているはずです。
本研究では、リフシッツの公式に着想を得て、通常のカシミール効果に加えてカシミール効果の源となる粒子が物質を構成している状況を統一的に記述する新しい公式を構築しました。量子力学では、フェルミ粒子が集まった状態は「フェルミ海」[3]、フェルミ粒子の一種であるディラック粒子[4]の真空は「ディラック海」[4]と呼びます。つまり、本研究で発見された公式によって、ディラック海による「真空圧」とフェルミ海による「物質圧」を一つの数式として統合できたと言えます。
本研究で発見した公式から予言された結果の一つとして、薄膜の厚さによって引力と斥力が交互に現れる現象を発見しました(図3)。これは、ディラック海の寄与からは現れないため、純粋にフェルミ海の寄与によって生じた現象です。フェルミ海の寄与の大きさは外的な操作によって調整できるので、このような引力・斥力は人類がある程度は制御可能です。
通常のカシミール効果では引力が生じ、カシミール効果をデバイスへ応用する際も引力を利用することになります。このため、デバイス精度向上には、引力だけでなく斥力をも制御することが重要な課題となっています。本研究の発見によって、カシミール効果における引力と斥力を自在に制御するための新たな方法の開拓につながります。
縦軸(カシミールエネルギー)のゼロを境に引力と斥力が切り替わる。挿入図は元々の縦軸に厚さの2乗をかけたもので、近距離ではディラック海の寄与、遠距離ではフェルミ海の寄与が支配的になることがわかる
さらに、真空圧によるエネルギーは距離の「3乗分の1」(圧力に換算すると4乗分の1)に比例して小さくなることが知られていました。本研究では、理論計算によって、物質圧によるエネルギーは「2乗分の1」(圧力に換算すると3乗分の1)に比例することがわかりました(図3挿入図の緑線を参照)。これは、比較的薄い薄膜では真空圧が支配的になり、比較的厚い薄膜では物質圧が支配的となることを意味しています。このように本研究で得た公式を用いて、薄膜状物質の内圧の様相を統一的に解明することができました。
本研究で発見した公式は、薄膜状物質の内部で生じている物理現象をエネルギーや圧力の観点から統一的に記述することができるものです。ここでいう「エネルギー」や「圧力」は、物質の熱応答や電気応答・磁気応答などの他の物理量の起点となる物理量です。したがって、本研究の理論は物質内部の様相を統一的に解明するのに役立つだけでなく、薄膜物質を用いた極小デバイス(圧力センサー、圧力変換素子)の開発にも必須の基礎理論となることが期待されます。
掲載誌:Physics Letters B
タイトル:Lifshitz formulas for finite-density Casimir effect
(有限密度カシミール効果のリフシッツ公式)
著者:Daisuke Fujii1,Katsumasa Nakayama2 and Kei Suzuki1
所属:1.日本原子力研究開発機構、2.理化学研究所
DOI:10.1016/j.physletb.2025.139758
本研究の一部は日本学術振興会科研費(課題番号JP20K14476, JP24K07034, JP24K17054, JP24K17059)の支援を受けて行われました。
2枚の金属板を平行に置き、数マイクロメートル程度の微小な距離を離すと、板の間に引力が働く現象。その起源は光の波(電磁波)のゼロ点エネルギーです。光子を起源とするカシミール効果は1948年にカシミール(H. B. G. Casimir)が理論的に提案しました。その後、長年にわたって実験研究が試みられ、1997年にラモロー(S. K. Lamoreaux)が高精度の実験結果を初めて示しました。カシミール効果は粒子の量子力学的かつ相対論的な性質に起因するため、光子に限った現象ではなく、ボーズ粒子やフェルミ粒子からも生じる場合があります。
私たちの身の回りの現象を記述する古典力学では、運動方程式を使うと、物体が存在する位置と物体が持つ運動量を予測できます。一方、微小な世界を記述する量子力学では、微小な粒子が存在する位置と粒子の運動量を同時に決めることはできません。これを「不確定性原理」と呼びます。この原理のため、粒子を一つの場所に止めておくことはできず、たとえ力が加わっていなくても、常にわずかに動いているような状態になります。このときの粒子が持つ、避けられない最低限のエネルギーを「ゼロ点エネルギー」と呼びます。
フェルミ粒子は量子力学における粒子の一つです。同じ性質を持つフェルミ粒子同士は同じエネルギーで存在できないという性質を持っています。これにより、フェルミ粒子がたくさん集まると、エネルギーの低い順に粒子が詰まっていき、特定のエネルギー以下が粒子で満たされた状態が現れます。粒子の詰まった部分を「フェルミ海」と呼びます。
ディラック粒子はフェルミ粒子の一種です。ディラック粒子にはクォークや電子などの素粒子、グラフェン上の電子、トポロジカル絶縁体の表面状態、ディラック半金属内部の電子などがあります。ディラック粒子系では、粒子が一つもない真空でも「負エネルギーの粒子」が詰まっていると考えることができ、粒子の詰まった部分を「ディラック海」と呼びます。ディラック海は本質的にはフェルミ海と同じ構造であり、物性物理の分野の場合はディラック粒子系であってもディラック海とは区別せず全体をフェルミ海と呼びます。