令和7年4月1日
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター

“悪者”水素が味方に:中性子が明かす金属の強度・延性向上メカニズム
―水素に強い金属材料を開発し、より安全な水素社会を目指す―

【発表のポイント】

【概要】

本研究では、金属を脆くする「悪者」とされてきた水素が、金属の性能を高める「味方」となるメカニズムを明らかにしました。

水素エネルギーは、カーボンニュートラル社会を実現するための重要な技術の一つです。実用化に向けては安全な水素貯蔵・輸送材料の開発が不可欠です。しかし、水素は金属に侵入すると、強度や延性を低下させる「水素脆化」を引き起こします。この水素脆化は、水素インフラの安全性向上を妨げる大きな課題とされていました。一方で、近年の研究では、特定の条件下で水素が金属の強度と延性を同時に向上させる可能性が示唆されていました。しかし、その詳細なメカニズムは未解明であり、科学的な裏付けが求められていました。

本研究では、この謎を解明するために、Fe–24Cr–19Niステンレス鋼(SUS310S)に水素を取り込んだ状態で、J-PARC註1物質・生命科学実験施設(MLF)に設置している 工学材料研究用中性子回折装置TAKUMI註2を用いたその場観察を実施し、水素が金属の変形過程に及ぼす影響を詳細に解析しました。その結果、金属の中に侵入した水素が原子の並びをゆがませ、転位註3の動きを妨げることで強度が向上し、面状の結晶欠陥の一種である変形双晶註4ができやすくなることで延性も向上するという新たなメカニズムを解明しました。この発見は、次世代の水素エネルギー社会に向けた高強度・高延性材料の開発に大きく貢献し、水素の安全な貯蔵・輸送技術の発展を支えるものです。

なお本研究は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構J-PARCセンターの伊東達矢博士研究員、マオ・ウェンチ博士研究員(研究当時)、ゴン・ウー研究副主幹、川崎卓郎研究主幹、ハルヨ・ステファヌス研究主幹、国立研究開発法人物質・材料研究機構の小川祐平研究員、岡田和歩研究員、柴田曉伸上席グループリーダーの研究グループによる成果です。

本成果は、2025年4月1日(現地時間)発行の英国科学誌『Acta Materialia』に掲載されました。

【これまでの背景・経緯】

水素エネルギーは、カーボンニュートラルを達成するための重要な技術の一つであり、実用化のためには安全に水素を貯蔵・輸送できる材料の開発が不可欠です。水素が金属に侵入すると金属が脆くなる「水素脆化」を引き起こし、水素インフラの安全性向上を妨げる大きな課題とされています。一方、近年の研究では、特定の条件下では水素が金属の強度と延性を改善することが報告されました。しかし、その詳細なメカニズムは未解明であり、科学的な裏付けが求められていました。本研究では、この謎を解明するために、中性子回折を用いた変形試験中その場観察を実施し、水素が金属の変形過程に及ぼす影響を詳細に解析しました。

【今回の成果】

本研究では、Fe–24Cr–19Niステンレス鋼(SUS310S)を高温・高圧の水素環境下(270°C、100 MPa, 200時間)にさらすことで、SUS310Sの重量に対して一万分の1.4程度の水素を導入しました。中性子回折を用いて引張変形中の水素を導入したSUS310S(以下、「水素添加材」という。)と通常のSUS310S(以下、「母材」という。)の構造変化を観察した結果、水素が強度と延性を改善するメカニズムが明らかとなりました(図1)。

図1 本研究で行ったSUS310S試料への水素添加と中性子回折実験

水素が固溶強化を引き起こし、金属の強度を向上させる

図2左は水素添加材と母材の中性子回折パターンです。原子の並びが作る格子(結晶格子)の方位や、その方位での結晶面の間隔によって異なる位置に回折ピークが現れています。水素添加材ではすべての方位で結晶格子が膨張しており、SUS310Sへの水素の侵入によって、結晶格子がわずかに広がってゆがみが生じていることが確認されました(図2右)。金属の結晶格子にこのようなゆがみが生じると、転位註3の移動が妨げられ、変形開始時の抵抗が高まることで強度が向上します。この現象は、固溶強化と呼ばれています。今回の場合、水素がSUS310Sに侵入して結晶格子をゆがませることで固溶強化が生じています。

図2 水素添加による結晶格子の膨張とゆがみ
左図の「111」や「200」はそのピークを生み出している結晶面の方位を示している。

固溶強化の影響でより小さなひずみで双晶が発生し始まり、強度と延性を高める

固溶強化によって強度が向上することで、より小さなひずみで変形双晶が発生し始まることが明らかとなりました。金属は通常、転位の移動によって変形しますが、双晶が形成されると転位の動きが抑制され、強度がさらに高まります。また、双晶が発生することで金属の延性が向上します(図3)。水素添加したSUS310Sでの固溶強化は、双晶を発生させやすくすることを通じて間接的に延性を向上させるとともに、さらなる強度向上も生み出していることを明らかにしました。

図3 水素添加による双晶が発生するひずみの変化と、双晶が強度と延性を高めるメカニズム

本研究で明らかとなった、水素添加材においてより小さなひずみで変形双晶が発生し始まるメカニズムは、従来の仮説とは異なるものでした。これまで、水素は積層欠陥エネルギー(SFE)註5を低下させることで双晶形成を促すと考えられていました。しかし、本研究でSFEや双晶の発生が始まる応力を評価したところ、水素による直接的な影響は確認されませんでした。従来の仮説を覆し、SUS310Sにおいては、水素が直接的に双晶形成を促すのではなく、固溶強化を通じて間接的に双晶の形成を促していることが明らかになりました。

以上の結果から、SUS310Sへの水素添加が強度と延性を向上させた最大の立役者は、水素の固溶強化であると結論づけられました(図4)。

図4 本研究で明らかとなった水素添加によるSUS310Sの強度・延性向上メカニズム

【今後の展望】

本研究では、SUS310Sにおいて、水素が金属の強靭化に寄与するメカニズムを実証しました。今後は異なる合金系や水素濃度、温度条件における影響も調査する予定です。特に、より高強度な合金系での同様の効果の検証や、低温環境下での水素の影響について詳細な解析を行うことで、水素エネルギー社会に適した材料開発を加速させることが期待されます。また、本研究の成果を応用し、水素を利用した新しい合金の開発や、より安全な水素貯蔵・輸送システムの設計へと発展させることを目指します。

【論文情報】

Tatsuya Ito, Yuhei Ogawa, Wu Gong, Wenqi Mao, Takuro Kawasaki, Kazuho Okada, Akinobu Shibata, Stefanus Harjo, “Role of solute hydrogen on mechanical property enhancement in Fe–24Cr–19Ni austenitic steel: An in situ neutron diffraction study”, Acta Materialia, 287, 120767 (2025)

doi: /10.1016/j.actamat.2025.120767

【各機関の役割】

日本原子力研究機構・J-PARCセンター:
試料準備、中性子回折実験、組織観察、データ解析、論文執筆

物質・材料研究機構:
試料準備、組織観察のサポートと機材提供、実験結果の解釈のための知見提供、論文執筆サポート

【助成金の情報】

本研究は、科研費「研究活動スタート支援(課題番号:JP23K19189)」、「若手研究(課題番号:JP21K14045)」、文部科学省「データ創出・活用型マテリアル研究開発プロジェクト(課題番号:JPMX-P1122684766)」、公益財団法人 池谷科学技術振興財団「単年度研究助成(課題番号:0361224-A)」の支援により実施されました。中性子回折実験は、J-PARC物質・生命科学実験施設の利用研究課題(課題番号:2023I0019、2024P0400)として実施されました。透過電子顕微鏡観察は、文部科学省「マテリアル先端リサーチインフラ」事業(課題番号:JPMXP1223NM0178)の支援を受け、実施されました。

【用語の説明】

註1 J-PARC

大強度陽子加速器施設(Japan Proton Accelerator Research Complex)の略。高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARCの物質・生命科学実験施設(MLF)では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、国内のみならず世界中から研究者が集まっている。

註2 工学材料研究用中性子回折装置TAKUMI(匠)

J-PARCのMLFに設置された飛行時間型中性子回折装置。世界最高水準の分解能を誇る。材料の環境を変化させながら、その場で試料内部のひずみや微細構造変化を詳細に測定できるため、工学材料研究の強力な手段になっている。

註3 転位

金属やセラミックスなどの材料は、原子がある一定の周期性を持って規則正しく並んだ結晶の状態で存在している。材料に強い力が加えられて変形が起こった際に、結晶内部に原子配列が乱れ周期性が失われた部分(欠陥)が現れる場合がある。この欠陥のうち、原子配列の乱れが線状に連なったものを転位と呼ぶ。金属はセラミックスに比べ、力が加えられた際に転位が発生しやすく、移動しやすいため、割れることなく変形させることができる。

註4 変形双晶

金属やセラミックスなどの結晶性の材料が外力によって変形する際に現れる、特定の結晶面に対して鏡面や180°回転した対称性をもつ組織。双晶が発生することで外力の方向に伸びるので、材料の延性を向上させるメカニズムの一つとなる。また、元の組織と双晶の境界では結晶構造の周期性がくずれているため、転位の移動を妨げ、変形抵抗(強度)が向上する要因ともなる。

註5 積層欠陥エネルギー(SFE)

結晶欠陥のうち、原子が並んだ面の重なりが1層だけ異なっているような面状の欠陥を積層欠陥と呼ぶ。原子配列にまったく乱れがない理想的な結晶(完全結晶)を考えたとき、そこに積層欠陥を導入するために必要なエネルギーを積層欠陥エネルギーと呼び、材料によって固有の値を持つ。積層欠陥エネルギーが低い材料では、同じく面状の欠陥である双晶が形成されやすい。

参考拠点:J-PARCセンター
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