2023年4月27日
大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
国立大学法人筑波大学

層状化合物にミクロな磁気揺らぎが存在
〜ミュオンで3つの温度領域を発見~

本研究成果のストーリー

※1.常磁性状態(常磁性相)
磁石などの磁性体は磁性をもつ原子からなります。しかし逆に、磁性をもつ原子からなる物質が磁性を示さないことがあります。磁性体の温度を上げていくと、原子のミクロな磁石としての性質(スピン)の向きがバラバラになり互いの効果を打ち消し合って、マクロな磁性が失われます。その状態を常磁性状態または常磁性相といいます。

図1:本研究で示されたAgCrSe2の3つの温度領域

120文字サマリー 層状化合物であるセレン化クロム銀(AgCrSe2)の常磁性相が、温度によって3つの状態をもつことが、J-PARCのミュオン測定(μSR)によりはじめて示されました。この基礎研究が将来の革新的デバイス開発のきっかけになることが期待されます。

概要

層状化合物であるセレン化クロム銀(AgCrSe2)の常磁性相をミュオンスピン緩和(μSR)測定で調べました。常磁性相では通常スピンが無秩序な方向を向いていると考えられますが、AgCrSe2の常磁性相では単純な無秩序ではない可能性が中性子準弾性散乱の先行研究で示唆されていました。しかし、その起源は十分に理解されておらず測定された温度点も限られていました。

μSR測定は素粒子ミュオンを原子レベルのミクロな磁場を調べる道具(局所磁場プローブ)として用いて、弱いスピン相関を直接検知することができます。本研究ではAgCrSe2の短距離スピン相関の存在を確定させ、広い温度範囲での温度依存性を初めて明らかにし、その常磁性相が3つの温度領域に分けられることを発見しました。

研究グループ

高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 中村惇平 技師
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系 下村浩一郎 教授
日本原子力研究開発機構 J-PARCセンター 川北至信 副ディビジョン長
東北大学 金属材料研究所 岡部博孝 特任助教
中国科学院 金属研究所 Bing Li 教授
筑波大学 数理物質系 末益崇 教授

研究者からひとこと

KEKの中村惇平 技師

私はもともと学生時代に液体の研究をしていて「短距離相関」やセレンを含む化合物を調べていたのですが、KEKに入りミュオンという全く違う分野で働いていました。しかし、まわりまわって、もとの分野の知識も少し使いながら研究できたので感慨深いです。

なぜこの研究を始めたか

銀(Ag)層とセレン化クロム(CrSe2)層が積み重なった層状化合物であるセレン化クロム銀(AgCrSe2)は、高温相で銀イオンが伝導して異方的な電気的性質を示すなど興味深い性質が知られています(図2)。これまでにBing Li教授と川北至信 副ディビジョン長らの研究グループは茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設J-PARC(※2)で中性子準弾性散乱実験(※3)を行いました。その結果、約150 K(-123℃)以上では磁性原子であるクロムの小さな磁石としての性質(スピン)が無秩序な向きであり互いに影響しあわないと解釈されました(※4)。

図2:セレン化クロム銀(AgCrSe2)の結晶構造Ag層とCrSe2層が層状構造を成しています。
本研究で示唆されたミュオン(μ+)の停止位置もあわせて示しました。

※2.大強度陽子加速器施設J-PARC
高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営する大型研究施設で、素粒子物理学・原子核物理学・物性物理学・化学・材料科学・生物学などの学術研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野で世界最先端の研究が行われています。J-PARC 内の物質・生命科学実験施設(MLF)では、世界最高強度のミュオンおよび中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まります。

※3.中性子準弾性散乱実験
中性子非弾性散乱実験の一種。中性子が物質とやり取りするエネルギーの量を精密に測定することで、物質内の原子やスピンの運動を観測する実験手法です。

※4.平成30年3月15日プレスリリース「エネルギー変換デバイスの高性能化に新たな道筋 層状結晶化合物の乱れた構造がもたらす機能発現のメカニズムを原子レベルで解明」
https://www.kek.jp/ja/newsroom/attic/pressrelease20180315.pdf
AgCrSe2は熱エネルギーを電気エネルギーにかえるための材料(熱電材料)の候補となる物質です。熱電材料の開発では、温度差を保ったまま電気を流したいので大きな電気伝導度と小さな熱伝導度の実現が目標とされています。AgCrSe2は、約450 K(177℃)以上の高温領域でAgイオンがイオン伝導性を持つとともに熱伝導率が低下し、その結果熱電効果が高くなります。 Agイオンの二次元面内での液体的振舞いにより横波の伝搬が阻害されることが熱伝導率低下の原因と分かり、熱電材料の設計指針が得られました。

一方、クロムはCrSe2層中で三角格子状に並んでいます。50 K(-223℃)以下の低温領域では隣り合うクロムのスピンが反対方向に揃おうとする反強磁性の性質が現れますが、三角格子では3つ目のスピンの方向が定められない不都合が生じるので、隣り合うスピンが少しずつ方向を変えて、結果的にスピンが螺旋(サイクロイド)状に並ぶ秩序が生じます。この反強磁性が生じる温度(ネール温度)より高い温度では、常磁性相と呼ばれる磁性原子のスピンの向きが無秩序な状態になると考えられており、上記のJ-PARCでの先行研究もこれに基づきます。しかし、フランスの研究用原子炉Orphéeを用いたレオン・ブリルアン研究所のグループの研究では、ネール温度を超える70 K(-203℃)、150 K(-123℃)、200 K(-73℃)という3つの温度点で、完全な無秩序ではない可能性が示されました。ただし、このときの中性子準弾性散乱実験の結果は、銀原子が平衡位置から大きく変位することでも解釈できる可能性があったので、ネール温度をはるかに超える温度で本当にそのような磁気揺らぎ(短距離スピン相関)が発達しているのかは議論を呼ぶものでした。また、中性子準弾性散乱の測定温度点は3点のみだったことから、短距離スピン相関が存在したとしても温度変化によりどのように出現するかはよくわかっておらず、他の原理を用いた実験で調べることが必要と考えられました。

ひらめいたところ

研究グループは、弱いスピン相関を直接検知することができるミュオンスピン緩和(μSR)測定(※5)を用いて、AgCrSe2の常磁性相を調べてはどうか、と考えました。μSR測定とは、素粒子ミュオンを原子レベルのミクロな磁場を調べる道具(局所磁場プローブ)として用いてμSRスペクトルを得る測定法です。

※5.ミュオンスピン緩和(μSR)測定
素粒子ミュオンを使うと利用できる、スピン緩和と粒子の崩壊という2つの実験原理を用いる測定手法。加速器で作られたミュオンを試料に照射すると、そのスピンがミクロな磁場を感じ、ミュオンスピンの向きが変化(緩和)します。ミュオンは特徴的な時間 2.2 μsで指数関数的に粒子崩壊しますが、そのとき放出される陽電子はミュオンスピンの向きに空間分布が偏ります。この偏りを表すμSRスペクトル(アシンメトリー)が、原子レベルのミクロな磁場の振る舞いを示します。なお、本研究では正の電荷を持つミュオン(μ+)を単にミュオンと呼びます。

努力したところ

中村 技師らの研究グループはJ-PARCの物質・生命科学実験施設(MLF)にあるミュオンS1エリアでμSR実験を行い、AgCrSe2常磁性相の広い温度範囲でμSRスペクトル(※5)を得ました。ゼロ磁場下で得られた結果の一部を図3に示します。

図3:本研究で示されたAgCrSe2のμSRスペクトル(アシンメトリー)の一部

新しくわかったこと

得られたスペクトルは温度降下に伴い、ガウス関数状から指数関数状に(※6)変化しています。また、 横軸の時間が0のときの縦軸の値「初期アシンメトリー」は更なる温度降下で急激に減少しています。詳しいデータ解析を行ったところ、ガウス関数状から指数関数状に変化する温度は約184 K(-89℃)で、初期アシンメトリーが急激に減少を始める温度は約89 K(-184℃)とわかりました。2つの特徴的な温度が得られたので、常磁性相を3つの温度領域に区別することができました。

スペクトルの形状変化を解釈すると、クロムスピンが互いに影響しあう短距離スピン相関は約184 K(-89℃)以下で発達する一方、この温度以上では発達していないことがわかりました。また、初期アシンメトリーの温度変化について横磁場を印加したときの結果と合わせて解釈すると、約89 K(-184℃)以下の温度では動的な磁気揺らぎが変化し、静的な短距離スピン相関として発達していると考えられました。

※6.ガウス関数と指数関数の形状の違い
ガウス関数と指数関数はμSRスペクトルを含む様々な実験データの解釈に用いられます。右図に、ガウス関数と指数関数の形状の違いの一例を示します。

本研究では、先行研究の中性子準弾性散乱実験のみでは確定することができなかったAgCrSe2の常磁性相における短距離スピン相関の存在を、ミクロな磁性を直接観測できる手法であるμSR測定により確定することができました。特に、温度降下とともに短距離スピン相関がどのように出現し変化していくかを調べ、常磁性相にはスピンの振舞いの異なる3つの温度領域があることを発見しました。その温度領域の違いは、無秩序相から2次元的な短距離スピン相関の発達、さらには3次元的な相関へと切り替わることを示唆していて、それは今後の研究で明らかにしていく予定です。

それで世界はこう変わる

中性子準弾性散乱実験とマクロな磁気測定を行っただけでは確定できないような現象でも、本研究のようにμSR測定を行うことで明らかにすることができます。ミュオンは原子レベルのミクロな磁場を捉えることに優れていて、J-PARCで中性子実験と相補的に行われるμSR測定は今後もスピン相関の研究に威力を発揮すると期待できます。磁性原子からなる物質であっても一般に高温では常磁性相となります。短距離スピン相関の理解が進むことで、将来、高温での使用に適したデバイス開発のきっかけになるかもしれません。

論文情報

「Short-range spin order in paramagnetic AgCrSe2」(常磁性AgCrSe2中の短距離秩序)
Jumpei G. Nakamura, Yukinobu Kawakita, Hirotaka Okabe, Bing Li, Koichiro Shimomura, and Takashi Suemasu
オランダElsevier社の英文雑誌Journal of Physics and Chemistry of Solids(2023年4月号)第175巻111199
https://doi.org/10.1016/j.jpcs.2022.111199

参考部門・拠点:J-PARCセンター
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