1.背景

放射線の中でもイオンビームなどの高速の荷電粒子が撃ち込まれた細胞中では、荷電粒子がさまざまな大きさのエネルギーをDNA分子に与え、このエネルギーに応じ、多様な損傷プロセスが同時並行的に進行します。しかしこれまでは、個々のプロセスを抽出し解析する手法がなかったため、DNA損傷プロセスの全貌を明らかにすることができませんでした。原子力機構では、生命科学の手法に加えシンクロトロン放射(以下、放射光)等を用いた分光学的な手法も駆使してDNA損傷プロセスの解明を目指した研究をしています。

DNA分子に特定エネルギーのX線を選択して照射する方法として、放射光が利用されてきました。1 keV以下のX線領域には、DNAを構成する酸素や窒素の内殻電子をイオン化する帯域(K殻吸収端2))が含まれています。放射光を分光器と呼ばれるエネルギー選別装置を通して、そのイオン化レベルを超えるエネルギーのX線を取り出し照射することで、DNA分子中に、特定のイオン化現象を起点とするDNAの損傷過程を調べることが可能と考えられます。

DNA損傷に至る過程では、不対電子3)を有する反応中間体を経由すると考えられています。不対電子は、最外殻の電子軌道にひとつだけ存在している電子で非常に反応性に富むことが知られています。一方これは不対電子を含む部位の寿命を短くしている原因でもあり、不対電子の直接観測は極めて困難でした。これまでは照射後のDNA試料を極低温に保持しながら電子常磁性共鳴(EPR)装置4)まで運搬して不対電子を測定するため、搬送中に消失してしまう不安定な不対電子は測定できないなど多くの問題がありました。

2.研究手法と成果

当研究チームは、高い輝度を持つSPring-8の放射光の特性を生かし、特定のエネルギーに選別した後でも十分な強度を持つ細いX線ビームを直接EPR装置内に導入し、DNA薄膜試料への照射を行いました。このEPR装置はDNA放射線損傷の研究のためにSPring-8のビームライン(BL23SU)に常設された世界で唯一の設備です(図1)。この設備を用いることで、運搬による不対電子消失の問題を解決し、DNA分子中に生じた不安定な不対電子の生成量を、EPR信号強度として「その場」観察することができました。

図1 SPring-8に設置したEPR装置でDNA薄膜の不対電子を「その場」測定

本研究では、照射するX線のエネルギーを少しずつ変えることで、DNA分子を構成する窒素及び酸素原子のK殻電子のイオン化レベル付近において不対電子の生成量がどのように変化するかを詳細に調べました。その結果、図2に示すようにK殻電子がX線を吸収する確率(図2中の青線)に対応して不対電子の生成量も変化することがわかりました。さらに興味深いことに、イオン化レベルをわずかに超えたエネルギーのX線を照射した場合、DNAのX線吸収確率に基づいた予想を超え異常にEPR信号が増大することが明らかになりました(図2中の赤線)。

図2 窒素及び酸素のK殻吸収端におけるEPR信号の異常な増大

物質がX線を吸収する場合、イオン化レベルをわずかに超えたエネルギーでは、衝突後相互作用(PCI:Post Collision Interaction)5)が生じます。これは、原子から離脱しようとする一対の電子のうちのひとつが、その途中で再び原子に捕獲される現象です。このような再捕獲があると、高いエネルギーの軌道に電子がひとつだけ残されるため、これがEPR信号強度の増大原因であることが予測されます。そこでこのようなPCIを考慮した理論計算を行ったところ、実験データをうまく説明できることがわかりました。生体分子にPCIの効果を見出したのは、初めてのケースです。近年の研究では、放射線照射によってDNA薄膜から放出された2次電子が試料中で減速された後にDNA分子の別の部位に付着して、DNA分子鎖を結合解離させて損傷生成に至ると報告されていました。今回見出された現象はこのような解離性電子付着現象6)とは異なる、特定のエネルギーで生じるイオン化プロセスに関係したDNA損傷の生成過程が存在することを示しています。(図3)

図3 DNA中の特定元素(図では窒素原子)のK殻へのX線吸収過程

3.今後の期待

今回、特定のイオン化現象を起点とする新しいDNA損傷プロセスが存在することが示されました。この結果は、高速荷電粒子線を含む放射線が生体に与える影響の原因となるDNA損傷の生成過程に関する重要な基礎的知見です。今回得られた知見により、放射線の中でも特にガンの放射線治療や植物の育種に用いられる高速荷電粒子線が生体中でどのようにDNA分子を変化させていくか、その初期過程の解明を目指した研究が大きく進展することが期待されます。

付記

本研究の一部は、日本学術振興会科研費(21310041)の助成を受けて行われたものです。

論文名・著者名

“Unpaired electron species in thin-films of calf-thymus DNA molecules induced by nitrogen and oxygen K-shell photoabsorption” (窒素及び酸素のK殻光吸収により子牛胸腺DNA薄膜中に生じた不対電子種)

T. Oka, A. Yokoya, K. Fujii, Y. Fukuda, and M. Ukai (岡壽崇、横谷明徳、藤井健太郎、福田義博、鵜飼正敏)

Physical Review Letters電子版に近日中掲載予定


戻る