<開発の背景と経緯>

中性子は、水素などの軽元素原子の位置や磁気の分布など、X線では得ることのできない物性を知るために利用されています。これまでの中性子ビームは、主に原子炉中性子源から供給されてきました。しかし、こうして得られる中性子ビームの強度は低く、詳細な物性を調べるには不十分でした。

2008年に世界最高性能の大強度陽子加速器中性子源であるJ−PARCが茨城県の東海村に完成しました。J−PARCの中性子ビームは従来の原子炉由来のものよりも、ピーク強度で100倍もの強度を持っています。この中性子ビームを高性能な集光ミラーで絞り、単位面積あたりの強度をさらに上げることによって、今までは全く知ることができなかった物性を調べることが可能になります。

中性子を集光するには、1)全反射ミラー注4)やスーパーミラーによる反射、2)物質界面での屈折、3)磁場のいずれかを利用する方法が挙げられます。これらのうち、2)は中性子の吸収・散乱による損失が大きいという欠点があります。また中性子の磁気は小さいため、3)の方法では十分に集光できません。そのため、効率的に中性子ビームを集光するには、世界的にもスーパーミラーが使われています。しかし、スーパーミラーの高性能化には、高精度な非球面基板の作製技術やミラーの剥離など多くの課題があり、理想的な集光ミラーの実現には至っていませんでした。

大阪大学の山村准教授らは2004年に、石英を非接触で加工する技術である「数値制御ローカルウエットエッチング(NC−LWE)法注5)」を開発しました。この新技術では、石英基板をナノメートルレベルの精度で、任意の形状に加工することができます。

また、日本原子力研究開発機構の曽山セクションリーダーらは、大型基板への成膜が可能な、世界最大の中性子スーパーミラー成膜用イオンビームスパッタ成膜注6)装置を開発しました。この装置を用いて、数千層からなるニッケル炭素とチタン(NiC/Ti)の多層膜を形成し、世界最高の臨界角注7)を有する高反射率中性子スーパーミラーの作製に成功しています。

2009年度からはJST 研究成果展開事業【先端計測分析技術・機器開発プログラム】要素技術タイプにおいて、大阪大学と日本原子力研究開発機構の技術を融合し、世界最高性能の中性子集光ミラーの開発に取り組んでいます。

<開発の内容>

中性子を集光するには、これまで平面基板の上にニッケルとチタンの多層膜を作ったものを用いていました。この基板を中性子集光ミラーとして機能させるには、設置する時に基板を曲げて、集光に適した曲面を作製する必要があります。しかしこの方法では、十分な精度で目的の曲面を作ることが困難でした。今回開発した技術では、集光に必要な形状の基板をあらかじめ作製し、その上にスーパーミラーを形成します。こうして得られた新しい集光ミラーの角度と位置を中性子ビームの進行方向に対して簡単に調整するだけで、従来行われてきた集光法に比べて、より効率的に中性子強度を増加することができます(図1)。

しかし集光に必要な曲面を持つ集光ミラーを作製するには、いくつもの課題がありました。まず従来法で石英を加工すると、加工表面が変質して強度が落ちてしまいます。そのため、加工表面に多層膜を形成しても変質した石英ごと剥がれてしまう問題がありました。今回用いた方法では加工する際に石英基板の表面が変質しないので、多層膜が剥がれません。また、従来法で基板上に形成された多層膜の質にも問題がありました。従来から用いられてきたニッケルとチタンで多層膜を形成すると、それぞれの膜の境目にきれいな界面が得られませんでした。ニッケルの代わりにニッケル炭素を使うことで、それぞれの膜の間にきれいな界面が得られ、格段に質のよい多層膜となります。

今回開発したミラーの作製では、まず長さ400mmの石英基板を数値制御ローカルウエットエッチングと精密研磨技術で加工し、形状誤差が0.5μm(マイクロメートル)以下、表面の粗さが0.2nm以下の高精度な楕円面基板を作製しました。こうして得られた石英基板の上にイオンビームスパッタ法で1,200層からなるニッケル炭素とチタン(NiC/Ti)の多層膜を形成すると、スーパーミラーが完成します。こうして得られたスーパーミラーの角度と位置を、中性子ビームの進行方向に対して簡単に調整するだけで、微小集光された大強度の中性子ビームを得ることができます。

実際に作製したミラーの集光性能をJ−PARCのビームライン(NOBORU)を用いて評価しました(図2)。幅0.1mmの光源スリットから拡がりながら出る中性子ビームを等倍で集光するミラーを用いて反射させ、最も収束する位置のビーム幅を測定しました。その結果、光源スリットの幅とほぼ同じ半値幅0.128mmを得ました(図3)。また、今回開発した集光ミラーを用いると、集光ミラーを使用しない場合と比較して52倍ものビーム強度を達成しました。今回開発した集光ミラーは、世界最高の集光性能を誇り、従来の集光ミラーを用いた時と比較しても、中性子ビーム強度を一桁以上向上させることができます(図4)。

<今後の展開>

今回開発したスーパーミラーを組み込んだ中性子集光技術は、中性子ビームの集光効率を飛躍的に向上させました。しかも、この技術を用いると集光の過程で中性子ビームの持つ波長が変わることもありません。例えば、J−PARCに建設中の反射率計に今回開発したミラーを組み込むことによって50倍以上の性能向上が期待できます。これは、記憶素子上の磁気ドメインが成長する過程や生体膜の構造など、これまでは実際に観察することができなかった研究を可能とするものです。また、水素原子はX線ではほとんど観測できませんが、中性子ビームでは観測が可能です。粉末回折装置に組み込むと、水を含む物質の物性を、より精密に測定することが可能となります。特に高温高圧下の含水物質の物性は、地球・惑星深部の構造と類似していると思われるので、本成果が惑星深部についての研究の進展にも大きく寄与することが期待されます。

現在、本技術をさまざまな中性子計測システムに応用するため、高い集光性能はそのままでサイズを小さくした多重ミラー素子や、回転楕円体ミラーを組み合わせてより強力に中性子ビームを集光する2次元集光素子の開発に取り組んでいます。

<参考図>

図1 曲面スーパーミラーによる中性子集光の概念図

今回開発した高精度曲面スーパーミラーを用いた場合(青)と、従来の機械的に曲げて曲面を作ったミラーを用いた場合(赤)、それぞれについて中性子ビームの軌跡を模式的に表した図。青色で示されている高精度曲面スーパーミラーを用いた場合は、従来法(赤)と比較して試料や検出器の上で効率よく集光していることが分かる。集光効率が優れているので、単位面積あたりに照射できる中性子の量を飛躍的に増大することが可能。

図2 J−PARCにおける長尺楕円面集光スーパーミラーの集光性能評価の様子

写真奥のスリットから中性子ビームが出るが、そのままでは中性子ビームは発散する。中性子ビームの進行方向に対して適切な位置・角度で設置された、長さ400mmの楕円面ミラーを用い、水平方向(横方向)に集光することが可能。

図3 集光光学系のレイアウト

スリットから出た中性子ビームを、楕円面スーパーミラーを用いて集光する。この場合、スーパーミラーは焦点距離が1,050mm。ミラーを用いない場合、スリットから出た中性子ビームが発散するため、単位面積あたりの照射強度は低下する。一方、今回開発したミラーを用いると発散していた中性子ビームが再び集光するので、単位面積あたりの照射強度が上がる。

図4 イメージングプレートで計測した中性子ビームの集光プロファイル

A−A’断面(a:非集光時)とB−B’断面(b:集光時)における中性子ビームの強度分布を3次元的に表す。(b)では集光ビームの半値幅として0.128mmが得られた。これは、光源のスリット幅である0.1mmに近い値であり、集光性能の高さを示す。また、ピーク強度は非集光時と比べて52倍を達成した。


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