補足説明資料

1.研究の背景

アスベストは、それを原因とする肺線維症や肺ガンの発病に至るまでの潜伏期間が数10年と長く「静かな時限爆弾」といわれています。現在、アスベストは使用が禁止されていますが、以前に吸入したアスベストにより、多くの人が健康被害に苦しんでおり、その治療のための早期診断法が切望されています。従来、アスベスト吸入歴のある患者の診断は、図1に示すように、胸部X線やCT写真によって、独特のサインである胸膜プラークという胸膜の部分的肥厚や、肺の線維化(アスベスト肺)の存在を確認することにより行われています。しかし、他の疾患でも胸膜の肥厚や肺の線維化はおこりますし、著明な変化が見つからない場合も多々あり、難渋する場合は、最終的に組織中の含有アスベスト量の測定が確定診断となります。

図1  胸部X線撮影や、X線CTによる石綿肺の診断

最も簡便な診断方法は、図2のように喀痰中にアスベストを発見することですが、よほど大量に吸入した患者でなければ見られず、この方法ではほとんど診断できません。肺組織中のアスベストは、肺組織切片をヘマトキシリンーエオジン染色して顕微鏡で観察する通常の病理検査の方法では、よく見えません。図3のような鉄染色という鉄を染め出す方法では、鉄分の多いアスベストしか見えず、実際に存在するアスベストの大部分はやはり、観察できません。さらに、5g程度の肺組織を酸で溶かしてアスベストを抽出し、その中に含まれているアスベストの本数を数える方法もありますが、手間がかかりますし、肺組織を採取するためには外科的手法をとらなければならず、患者に大変な負担をかけます。また、病態の解明には、どうしても、処理を加えない生検体で組織中のアスベストの形態・種類・含有元素の同定が必須となりますが、従来、生検体中のアスベストを観察できる方法は、ありませんでした。

図2  喀痰中のアスベスト小体

図3  組織中のアスベスト小体

2.研究成果

原子力機構TIARAでは、3MeVまで加速した水素イオンビームを1μm以下にまで集束できる軽イオンマイクロビーム装置を保有しており、その高い空間分解能を生かして、粒子線誘起X線放出(Particle Induced X-ray Emission, PIXE)に基づく元素分析技術と組み合わせ、大気中で微小領域の元素分布を測定する大気マイクロPIXE分析を世界で初めて開発し、主に生物細胞内の微量な元素の分析研究に利用しています。PIXE分析は、図4に示すように、水素イオンビームの照射によって測定対象の原子の軌道電子をはじき出し、その空いたところに外殻の電子が移動する時に放出されるX線のエネルギーと量を測定することで、原子の種類と量を測定します。電子やX線励起による蛍光X線分析に比べ、X線スペクトルのバックグラウンドが低くX線の発生確率が高いので、高感度な分析ができます。大気マイクロPIXE分析を用いることにより、細胞程度の微小な試料であっても、それに含まれるマグネシウムからウランまでの多種の元素の分布を、1μmの高空間分解能と数ppmの高感度で一度に分析できます。この結果、血液や細胞等における鉄、銅、亜鉛といった生体内で重要な役割を果たしている微量元素の濃度分布が、細胞レベルで得られます。

図4  粒子線誘起X線放出の原理

そこで、大気マイクロPIXE 技術が、肺組織中のアスベストの分析に応用できれば、少量の肺組織を採取するだけで、その中に含まれる微小なアスベスト繊維について、ケイ素、マグネシウム、鉄などの成分の元素分布の画像化、その成分比などの分析結果から、患者さんが実際に吸引した程度、アスベストの種類や吸引場所など、診断に有用な情報を得ることが可能であろうと考えました。このことから、平成19年に、群馬大学21世紀COEプログラム「加速器テクノロジーによる医学・生物学研究」の一環として、群馬大学と原子力機構との共同研究を開始しました。

分析のための試料としては、アスベスト吸入歴がある人とない人について、それぞれ肺がんを合併した患者の肺のがん以外の部分を数mg単位で用いました。肺組織の凍結切片をスライドグラス上に張った厚さ5μmのごく薄い高分子フィルムに載せて乾燥させた後、高分子フィルムとともに切り出し直径1.5cmのアクリル試料ホルダーに固定しました。図5に試料ホルダー周辺の構成を概念的に示します。

図5  肺組織切片のマイクロPIXE分析の概略

3.成果

図6に示すように、アスベストの吸引歴のない非アスベスト肺では、ケイ素が分散していますが、アスベストの吸引歴があるアスベスト肺では、その主成分であるケイ素は集中した分布をしています。また、その位置には、非アスベスト肺ではほとんど見られないマグネシウム(Mg)や鉄(Fe)などの金属が同時に多量に存在し、その違いを識別することができます。

図6 大気マイクロPIXE分析結果から得られた元素分布画像

上: 非アスベスト肺中のケイ素とマグネシウムと鉄の含量を測定しました。非アスベスト肺中のケイ素は分散しており、その部分には、マグネシウムも鉄も存在しません。したがってこのケイ素は、アスベストのケイ素ではないと考えられます。
下: アスベスト肺中のケイ素とマグネシウムと鉄の含量を測定しました。アスベスト肺中のケイ素は集中した分布を持っており、その部分にはマグネシウムと鉄が存在しました。明らかに、ケイ素、鉄、マグネシウムを同時に含むアスベストが肺内に沈着していると考えられます。

図6で示した各元素を、色で識別し、合成すると図7のようなケイ素、マグネシウムおよびそれらが混ざった針状のアスベストを検出できました。ここで検出されたアスベストは、わずかに鉄を含むクリソタイル(白石綿)Mg3Si2O5(OH)4もしくはアモサイト(茶石綿) (Fe-Mg)7Si8O22(OH)2であり、明らかにクロシドライト(青石綿)Na2Fe32+Fe23+Si8O22(OH)2ではないと考えられます。 このように、組織試料中のアスベストの種類の同定も可能となります。

図7  大気マイクロPIXE分析で測定した肺組織切片中のアスベストの画像

今後は、アスベスト吸入歴のある肺と吸入歴のない肺について、サンプル数を増やし定量化を試みます。さらに、これらマグネシウムや鉄といった金属の存在が、癌化や線維化に影響を与えている可能性があり、今後アスベスト周囲組織の微量元素の分布の測定や、免疫染色の結果と比較しながら、検討していく予定です。


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