補足説明

1.研究の背景と経緯
(1) イオン液体について
 イオン液体とは塩でありながら、室温付近で液体となる溶融塩である。典型的なイオン液体は陽イオンとしてイミダゾリウム、ピリジウム、アンモニウムなど、陰イオンとしてCl-、BF4-、PF6-、(CF3SO2)2N-、(略号Tf2N-) などのイオンから構成されたものが主流であるが、様々なイオンを容易に合成できるため、その組み合わせは無限にあるといえる(図1)。



イオン液体の特徴は以下の通りである。
 @ 蒸気圧が極めて低いものが多い。
 A 高温でも燃えにくく熱安定性が高い。
 B 陽イオン・陰イオンの組み合わせにより、物性を調節することができる。具体的には密度、極性、疎水性、粘度等を調節でき、高い極性をもちながら水にも有機溶媒にも混和しないような性質を導入できる。
 C イオン伝導度が比較的高い。
 この@、Aの特徴からイオン液体は環境調和型溶媒として期待され、環境保全を指向したプロセスへの応用が様々な分野において検討されている。また、B、Cの特徴からイオン液体は水や有機溶媒とは大きく異なる特異環境を提供できるため、従来にない反応場として大きな可能性を秘めている。このようにイオン液体は環境に優しいというだけではなく、新たな機能開拓への期待も寄せられている。

(2)イオン液体を用いた溶媒抽出法に関する研究背景 −生体分子抽出への挑戦−
 溶媒抽出法とは、互いに混じり合わない二液間における溶質の分配性の違いを利用した分離・濃縮手法である。例えば、適当な抽出剤を含む有機溶媒に目的成分を含む水溶液を接触させると、抽出されにくい物質は水溶液中に残留し、抽出されやすい物質のみを選択的に有機溶媒中に移動させることができる。しかし、従来の溶媒抽出法では揮発性・引火性の高い有機溶媒を使用するため、環境を配慮した新しいプロセスを開発することが今後の重要な課題である。このような中、環境調和型の新しい溶媒として期待されているイオン液体を有機溶媒の代替として利用する研究が近年注目を浴びるようになった。イオン液体を用いた研究では、これまで金属イオンや単純な芳香族有機物を抽出対象として、有機溶媒を用いた系よりも優れた研究成果が得られているが、タンパク質のような生体分子の抽出は困難であり、未だ報告例がなかった。

(3)イオン液体をタンパク質の反応場として応用した研究背景
 タンパク質である酵素は生体内において様々な機能・変換をつかさどる生体触媒であり、生命維持活動において重要な位置を占めている。酵素本来は水中で機能を発現するが、イオン液体中でも酵素反応が進行するということが2000年になって報告され、その有用性が認知されつつある。しかしながら、酵素は通常イオン液体には溶解しないため、この不溶性、低分散性が酵素活性の低下を招く。そこで、タンパク質の失活を招くことなく安定にイオン液体に溶解させることが重要となる。また、溶解させることができれば、イオン液体の特異な性質により、タンパク質の機能が改変され、思わぬ効果が発現する可能性もある。


2.研究の内容
(1)イオン液体への生体分子の抽出
 本研究グループはイオン液体へのタンパク質の抽出を成し遂げるために、タンパク質と親和性の高い水酸基を有するイオン液体を新規に合成した。また、このイオン液体にタンパク質に結合する能力を持つクラウンエーテルと呼ばれる環状化合物を溶解させ、タンパク質であるシトクロムcを含む水溶液と接触させた。その結果、図2に示すようにクラウンエーテルがシトクロムcの分子表面と選択的に結合することにより、シトクロムc(赤色)が水相(上の相)からイオン液体相(下の相)へ完全に抽出されることを発見した。



(2)タンパク質の新たな機能(酸化反応を触媒する機能)を発見
 本研究グループは上記のような抽出法を用いてシトクロムcをイオン液体に溶解させることに成功した。さらに、イオン液体に溶解したシトクロムcの機能を調べた結果、水中では見られない新たな機能(酸化反応を触媒する機能)が発現することを発見した。図3に示すように、2,6-ジメトキシフェノールが過酸化水素によって酸化されて赤色の生成物を生じる反応の速度は、イオン液体中のシトクロムcの触媒機能によって大きくなる。これは、イオン液体中でシトクロムcの活性部位近傍の構造変化が起こるためであり、水中のシトクロムcには、このような触媒機能は見られない。




3.成果の意義と波及効果
(1)生体分子の抽出媒体としてのイオン液体の応用
 タンパク質をイオン液体中で用いる上での問題点はタンパク質がイオン液体に全く溶解しないことであった。本研究は溶媒抽出法を用いてタンパク質をイオン液体中に均一に可溶化した世界で初めての例であり、溶解性の問題を克服した。また、本手法は特定のタンパク質のみを選択的に抽出できるため、分離技術としても応用できる。今後、タンパク質の抽出媒体および反応媒体としてのイオン液体の利用において益々の発展が期待される。

(2)イオン液体中でのタンパク質の機能化
 タンパク質をイオン液体中で使用することの利点は、水中では行えない反応が可能となる点である。具体的には水に不溶な有機物の分解が挙げられ、環境汚染物質(環境ホルモン・農薬等)の分解処理技術への応用が期待される。また、今回の成果のように、イオン液体の特異的な性質により、タンパク質の機能が大きく変化する可能性も秘めており、生物工学への応用も期待できる。
以上

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