【研究開発の背景と目的】

水素は最も小さく、最も軽く、そして化学的に活性な元素です。水素はほとんどの金属と反応しますが、その多くは金属中に水素が溶けた状態を形成します。高濃度に溶けた水素と金属の化合物が「金属水素化物」です。金属中の水素の状態(位置、量)は材料中の水素の拡散や金属水素化物の安定性など、金属-水素系の特性を理解するための基本的な情報です。鉄などの金属中に溶けた水素は、微量でも水素脆性のようにその機械的性質を変え、また高濃度に溶けると結晶構造や密度、物性を変えることが古くから知られています。

しかし、これまで鉄に水素が高濃度に溶け込む条件下である高温高圧力下で、金属水素化物中の水素を観察することは非常に難しく、どこにどれだけの水素が溶け込んでいるのかを調べることができませんでした。

高温高圧力下で金属中へ水素が溶け込む様子は、放射光X線回折などの「その場観察実験」により、金属格子の変化として調べられています。しかしながらX線では金属中の水素を直接観ることができず、高温高圧力下での水素の状態を知ることができません。そこで、水素を直接観察することができる中性子を利用して調べるため、大強度陽子加速器施設J-PARCに整備された世界唯一の高温高圧専用ビームライン「超高圧中性子回折装置(PLANET)」を利用して実験を行いました。

金属格子中には図1に示すように金属原子が四面体に配置したサイト(隙間)と八面体に配置したサイトの二種類が存在します。これらのサイトには1個ずつ水素原子が溶け込むことができますが、水素原子が入ることによる金属格子の膨張やそれに伴う結合の変化が機械的特性や物性を変える一因になります。常温常圧に近いマイルドな水素雰囲気下では鉄には極微量の水素しか溶けません(鉄原子1億個に対して水素原子が5個程度)。今回は高温高圧力領域で形成される面心立方(fcc)構造を持つ鉄の水素固溶体※5に着目しました。fcc構造の鉄の水素固溶体では八面体サイトだけに水素原子が存在しており、鉄1原子あたり0から1個の水素が連続的に溶け込みますが、四面体サイトには水素は存在しないということが定説になっています。鉄中に水素が溶けている状態は常温常圧では不安定で、圧力を下げると水素が金属格子から放出されて鉄に戻ってしまいます。このため、fcc構造の鉄の水素固溶体に対してはこれまで常温常圧に回収して鉄の格子中の水素の位置や量は調べることができませんでした。そのため、J-PARCを利用して高温高圧力下における中性子回折その場観察実験を行い、fcc構造の鉄の水素固溶体における水素の位置や量を調べました。

図1

【研究の手法】

J-PARC物質・生命科学実験施設のPLANETでは、これまで困難であった数万気圧、数百℃を超える高温高圧力下での中性子回折その場観察測定を行うことができます。これまでに原子力機構の研究グループでは大型放射光施設SPring-8において、高温高圧力下で様々な金属や合金へ水素が溶け込む様子を放射光X線により明らかにしてきました。今回、放射光実験で培った高温高圧力下水素化反応技術を基にして中性子回折用の高圧セルを開発し、PLANETに設置されている大型プレス装置を利用して鉄が高温高圧力下で水素化する過程の中性子回折その場観察測定を実施しました(図2)。実験では水素を重水素置換※6した試料で測定を行っています。

結晶中では原子が規則的に配列しています。中性子は原子核で散乱されますが、原子が並んだ面の間隔に対応して、回折プロファイル※7にピークが現れ、原子配列が変わるとピーク位置が変化します。また、等価な位置にある原子数が変化すると、その強度が変化します。本実験では室温で約7.4万気圧まで加圧した状態から温度を約715℃まで上昇させることで、鉄の高温相であるfcc構造の鉄が高温で発生させた水素と反応して、水素が溶けこむ過程を中性子回折でその場観察することに成功しました。

図2

【得られた成果】

高温高圧力(約715℃、6.3万気圧)の状態における中性子回折プロファイルを、定説である八面体サイトのみに水素が存在している構造モデルを用いてリートベルト解析※8を行ったところ、強度が合わないピークがあることが確認されました(図3上段)。そのため、四面体サイトにも重水素が存在している構造モデルで解析を行ったところ、八面体サイトに重水素原子が鉄原子1個あたり0.532個、四面体サイトに0.056個が存在しているモデルでピーク強度をよく再現できました(図3下段)。定説とは異なり、二つのサイトに重水素が存在していることを示しています。また鉄のfcc格子体積が水素化によって、水素原子1個あたり0.0022 nm3膨張することが実験的に初めて決定されました。これは、これまで仮定されてきたfcc構造の鉄に水素が溶けた際の体積膨張率0.0019 nm3に比べて大きな値です。

図3

【今後の予定】

中性子回折その場観察測定を利用した本研究によって、高温高圧力下において鉄へ水素が溶け込む過程と形成された水素固溶体の水素原子の位置と量が明らかになりました。得られた結果は定説である八面体サイトだけでなく四面体サイトにも水素が存在することを示しています。鉄中に溶けた水素がどこにどれくらい存在するかという情報は、水素が溶けることによってどのくらい鉄格子の体積が膨張したかという情報とともに鉄-水素系の特性を理解するために必要な情報です。八面体サイトへと四面体サイトへ水素が溶けた場合では格子の膨張率が異なります。例えば水素脆性は微視的な体積膨張もその一因であると考えられますので、水素脆性メカニズム解明にとっても新たしい知見を与えることが期待されます。このような知見は各種鉄鋼材料の高品質化・高強度化に向けた研究開発にも役立つと期待されます。また、地球内部コアは主に鉄でできていますが、その密度は、予想される温度・圧力条件下での鉄の密度に比べて低いため、内部コアの鉄中に水素が存在していると考えられています。本研究で実施した高温高圧力下の中性子回折その場観察測定が地球内部の研究が進展する足掛かりになると期待されます。


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