研究の背景

(1)量子エラー訂正

通常のデジタル情報の処理、記録、通信においてもエラー訂正は不可欠ですが、量子情報は外部からのノイズ、攪乱に対してきわめて脆弱です。ノイズによって計算が途中で台無しにされないための量子エラー訂正なしには、量子コンピューティングの多量子ビット化は実現しないと考えられています。ただし、量子情報のエラー訂正は、次の2つの理由で難しい課題です。第1の難関は、通常のビットは1か0どちらかの状態しかとらないのに対して、量子ビットは |0> と |1> という2つの状態の任意の重ね合わせ状態 (ただしα|0> + β|1>, |α|2+|β|2 = 1) をとることができます。すなわち、α、βのとり得る値の組み合わせは無限となりうるのです。第2の難関は、情報を複製するために量子ビットを測定すると、|0> か |1> のどちらかの状態になってしまうため、コピーすることができないことです(これを非クローン定理という)。

量子計算をエラーから守るアルゴリズムが存在することは、ショア(P. W. Shor、1995年)とスティーン(A. Steane、1996年)によって示されました。エンタングルメント(量子もつれ)*4という量子力学特有の現象を利用すると、守りたい量子ビットの中味を知ることなしに、エラーに関する情報のみを引きだし、訂正を施すことができるのです。しかし、量子エラー訂正アルゴリズムを実証した実験例は、これまでは、イオントラップや超伝導量子ビットなど、極低温を必要とするものや、多量子ビット化の拡張において限界のある核スピンの集団を用いるNMRに限られていました。量子コンピュータを単なる原理実証から実用化の段階へ進めるには、大規模化が可能な系において、量子エラー訂正をしながら計算できることを示すことが必須となります。

(2)日独共同研究の狙い

単一欠陥検出と単一電子スピン検出(Gruber et al., 1997)、単一電子スピンの任意の重ね合わせ状態を作る操作(Jelezko et al., 2004)、電子スピンと2個の核スピンの3量子ビット・エンタングルメント(Neumann et al., 2008)などが発表されて以来、NVセンターを用いた室温動作の量子コンピューティング開発への期待が高まってきました。最近では量子コヒーレンスに基づいた超高感度と単一欠陥による超高空間分解能とを併せもつセンサー(磁場・温度・電場)への応用も注目され、ドイツで始まった研究はハーバード大学、デルフト工科大学を初め世界的に広がってきています。

磯谷名誉教授が日本側代表を務めた日独共同研究は、ダイヤモンド合成*5、欠陥制御などダイヤモンド材料科学において大きな蓄積のある日本チーム*6と、量子操作において最先端に立つドイツチームが相補的に取り組むことで、量子コンピューティングの世界初のブレークスルーを目指しました。

研究内容と成果

原子核がミクロな磁石として振る舞う核スピンはMRIとして医療診断に、またNMRとして有機分子や生体分子の構造決定に使われています。これらではシグナル検出に1012個を超える分子集団を必要とします。

本研究グループは、固体中の単一の核スピンを量子ビットに利用し、量子エラー訂正に必要な3量子ビットまで拡張することを目指しました。核スピンを用いる量子ビットには、量子情報を保持する時間が長いという長所があります。しかしその一方で、単一核スピンでは初期化や読み出しが難しい上に、計算を構成するステップとなるゲートの動作速度が遅いという短所があります。エラー訂正に手間取ってしまうと新たなエラーが入り込んでしまいます。そこでミクロな磁石として強さにして3桁大きい電子スピンと組み合わせることにより、高速化を図りました。そこで着目したのが、単一の電子スピンからなる量子ビットについて、室温での光による初期化や読み出しが実現している特異的な系であるダイヤモンド結晶中のNVセンターです。

窒素は核スピンをもちますが、炭素は天然存在比1.11%の同位体13Cのみが核スピンをもちます。NVセンターの単一の欠陥(単一の分子に相当)に関して、14N(天然存在比99.63%)に加えて、13Cを2個もつものを作製し、これを、単一の核スピン3個と単一の電子スピン1個とからなるサブナノスケールのハイブリッド量子レジスタとして用いました。NVセンターという特異的な系において電子スピンとの相互作用を用いると、核スピン量子ビットの初期化、読み出し、2量子ビットゲート操作を高速に実行できます。これにより、「量子情報を保持する時間が長いことと、動作速度が速いことの両立」を室温で実現しました。

量子コンピューティングの超並列計算能力は、量子力学特有の現象で「エンタングルメント(量子もつれ)」と呼ばれる「複数の量子ビットの状態が強い相関関係をもって分離できない状態」に基づいています。私たちは、ハイブリッド量子レジスタの3個の核スピンを用いて、高品質の3量子ビット・エンタングルメントの生成に室温で成功しました。さらに、ハイブリッド量子レジスタを用いて、量子コンピューティングに不可欠な量子エラー訂正アルゴリズムの実証にも成功しました。

本研究における量子エラー訂正の成果のポイントは以下の3点です。

今後の展開

(1)より確固な量子エラー訂正

今回の成果は、補助ビットを含めた3量子ビットのうち1ビットのビットフリップまたは位相フリップという単純なエラー発生に有効な3量子ビットコード・プロトコルの実証です。しかしこれは、5量子ビットコードへと拡張することが可能です。

(2)NVセンターの配列を用いた多量子ビット化・光子を用いてリンクした量子情報ネットワーク

今回の日独共同研究の別の成果として、イオン注入によるNVセンター作成において、コヒーレンス時間(量子情報を保持する時間)を長くすることと収率を上げることの両方を達成し、3個の電子スピンからなる3量子ビット量子レジスタを作製しました [T. Yamamoto et al., Phys. Rev. B. 88, 201201 (R) (2013)]。 この量子レジスタでは、量子ビット間の相互作用の強さ(ゲート操作の速さ)とコヒーレンス時間の積という性能指数において、極低温のイオントラップと同等の値を室温で達成しました。マスクを用いたイオン注入により、NVセンターの配列を作製する多量子ビット化実現への道を開いたと考えられます。今回のエラー訂正は、配列中のそれぞれのNVセンターに適用することができます。また、長い量子情報保持時間の量子ビットをもち、正確な量子操作をするハイブリッド量子レジスタをユニットとして光子を用いて結合する量子情報ネットワークへと発展させることが可能です。


戻る