SUSはγ鉄にクロムや微量のNiなどの合金元素を混ぜたステンレス鋼の呼称で、その代表的なものが18%Cr、8%Niを含むJISで規格化されたSUS304です。SUS304は錆び難く機械的性質も大変優れているため、厨房・家電や自動車・鉄道車両、原子炉のシュラウドなど幅広い用途で実用されています。SUS304に外部から力を加えると結晶構造が変わり、強くなって伸びも大きくなることが知られています。このような壊れ難く、加工しやすい特性を向上させるためには、その結晶構造の変化のプロセスを解明することが大変重要となります。
SUS304の結晶構造は、γ相と呼ばれる面心立方構造(face-centered cubic : fcc構造)の相の中に発生する欠陥や転位を起点に体心立方構造(body-centered cubic : bcc構造)のα’相に変化することが知られています(図1参照)。これまでの研究において、γ相からα’相への変化において中間相としてε相が出現することが電子顕微鏡観察により報告されていますが、ε相は室温以下の低温でしか観測されておらず、「室温においては」ε相は出現しないと考えられてきました。
本研究では、室温においてε相が生成していることを放射光回折法により調べました。実験は大型放射光施設SPring-8のビームラインBL02B1において行いました。試料片の表面だけでなく、内部まで含めた試料全体にわたる情報を得るために試料を透過する配置で測定を行い、どのような相が存在しているかを調べました。
始めに、予め引張り応力を加えたSUS304試験片を測定しました。室温で測定したX線回折データには結晶構造が変化した後のα’相の回折ピークとともにε相の回折ピークが観測されました。ε相の量はγ相やα’相に比べると極めて少ないですが、SPring-8の高輝度光源を用いることにより明瞭に観測することができました。この結果はこれまでの報告とは異なり、室温においてもε相が生成していることが判りました。そして、γ相は中間相ε相を経てα’相へ変化していることが示唆されました。そこで、次に、図2に示すようにBL02B1の多軸回折計に試料負荷装置を取り付けて、SUS304試験片を引張りながらその場測定をstep-by-stepで行い、図3のX線回折データを得ました。予歪みを与えていないバージン試料に徐々に負荷をかけていったところ、試験片の伸びの量の増加に伴ってε相が生成し、増加していく様子が観察されました。さらに、このε相の増加に遅れてα’相が増加していく様子が観察されました。
そこで、次に、α’相がどのようにして生成するのかローレンツ透過型電子顕微鏡を用いてミクロなスケールで組織観察を行いました。α’相は強磁性体ですのでローレンツ透過型電子顕微鏡を用いることによって非磁性体であるγ相(およびε相)の領域と区別することができます。予歪みを与えた伸び20%の試料を観察したところ、図4に示すようにγ相のABCABCと積層した原子層の中にできた欠陥に沿ってα’相が存在していることがわかりました。このことはα’相が、積層欠陥や転位の部分を起点に成長していることを示唆しています。図5は高分解能電子顕微鏡像です。α’相付近を拡大した像から、双晶(ツイン)境界付近にABAB積層のε相が存在することがわかりました。
以上の測定から、室温での加工誘起変態において新たに見出されたひとつのプロセスとして、γ相の双晶境界付近にε相が生成し、それがα’相へと変態することがわかりました(図6)。放射光回折法による試料全体の定量的観測とローレンツ透過型電子顕微鏡によるミクロな組織観察を組み合わせることにより、これまで見出されていなかった室温における加工誘起変態の中間相としてのε相の存在とその相変態のプロセスが明らかになりました。
SUS304は優れた機械的性質を持つ材料ですが、水素を添加した場合には引張り延性が下がり脆くなることが知られており、実用面において大きな課題となっています。これまで、引張り延性のような性質には、加工誘起変態における中間相の生成が関係していると考えられてきましたが、それを実験的に確認することができませんでした。最近の私たちの研究から、水素による脆化は室温において高密度のε相が形成されることによって起こることがわかってきました。本研究では相変態の過程で生成するε相の様子がミクロなスケールで明らかとなりましたので、今後、水素によるステンレス鋼の脆化の機構解明と水素環境中で使用する材料提案や材料開発につながると期待されます。