補足説明

【背景】

日本原子力研究開発機構(以下、原子力機構)では、米国エネルギー省との中性子散乱日米科学技術協力に基づいて米国オークリッジ国立研究所(以下、ORNL)の研究用原子炉(High Flux Isotope Reactor: HFIR)を利用した研究を実施しています。HFIRに広角中性子回折装置(Wide Angle Neutron Diffractometer: WAND、図1)を設置して、大学や企業を含めた様々な研究をすすめています。

HFIRは100 メガワット級の世界トップクラスの研究用原子炉で、そこから強い中性子ビームが得られます。加えて検出器の感度が良いことから、WANDは物質の構造変化を捕らえることに適しています。

私達はこの事業の一環として氷の研究を進めてきました。中性子は水素に敏感(図2a)です。その水素の塊とも言えるのが氷ですので、中性子ビームで氷の構造を詳しく調べることが可能です。通常目にする氷Iの結晶構造(図2b)もORNLで初めて解明されました。氷を標準的な試料としてWANDでデータを取得し、装置や分析方法の改良を行っています。そして、最近の惑星探査や天体観測で存在が確認されるようになった宇宙や太陽系惑星の様々な氷について、その構造と性質を明らかにすることを目的として実施したのが本研究です。

図1 オークリッジの研究用原子炉HFIR(赤色の部分)に機構が設置した広角中性子回折装置WAND(青色の装置)/図2(a)水分子の模式図。(b)通常の氷Iの結晶構造。(c)強誘電体の氷XIの結晶構造

【研究成果の内容】

今回、私達はWANDを利用することで、氷に「メモリー」が存在することを発見しました。以下に「メモリー」について解説します。図3の散乱角40.2°付近に中性子回折の強いピークを示す白と青色が見えます。このピークの存在は、図2(c)の様に水素の配置が片方に揃って秩序化していることを示しています。図3の90時間未満の(ア)と書かれた部分は、最初に60 K(マイナス193℃)で40時間経過させて、段階的に温度をあげた氷のデータが示されています。低温から少しずつ温度を上げると図2(c)の様に水素が揃って秩序化し、さらにとても大きな水素秩序氷が得られます。秩序化すると赤い矢印で示す電荷の偏りが出来て、電位差をもつ電池のような氷(強誘電性氷)になります。

次に(イ)では温度を100 K(マイナス173℃)まで上げたところ青色が消えました。これは、大きな秩序氷が消失したことを意味します。そして、70 Kで数十時間経過させたのですが、通常はこの温度で水素が秩序化することは無いのですが、ここでは直ぐに青色に変化しました。(ウ)でも同様の現象が見られます。即ち、通常は水素が秩序化することの無い温度域にも関わらず、この実験では秩序化が観察されたのです。

図3 中性子回折の実験で観察された「氷のメモリー」の一例

(イ)と(ウ)で水素が秩序化した理由は、(ア)の部分でとても大きな秩序氷へ変化した経験があるからです。私たちはWANDを利用して繰り返し同様の現象を観察し、氷は過去に一度大きく秩序化した経験があると、より高い温度でも秩序化するという性質を発見しました。まるで記憶を持つかのように過去の経緯の影響があることから、これを氷の「メモリー」と名付けました。

【成果の波及効果】

何故、氷に「メモリー」があるのでしょうか。それは、水素結合がネットワークを形成するため水素原子が動きづらいことにより、ナノスケールの微小な水素秩序領域が残留するからだと考えています。水素秩序構造は熱力学第三法則に合致した構造で、無秩序構造よりも安定です。水分子は狭い場所や少数の集団として存在した場合は高い温度でも秩序化すると理論的に考えられてきましたが、実験的にその証拠を捉えたことはこれまでありませんでした。今回の「メモリー」の発見は、水分子が小さな集団を作った場合は分子の向きが揃ってきれいに並んでいることを示す世界で初めての実験結果で、上記の理論研究と合致するものでした。

この発見は構造物性として興味深いことに加えて、宇宙や地球の進化と密接に関わっています。太陽系が形成されるときに広い領域に小さな氷粒が大量に存在していたと考えられているのですが、その氷の多くが秩序化していて強誘電体であることを意味するからです。そして強誘電性氷は、氷同士で合体成長したり他のイオンを引きつけたりします。このことは宇宙の物質進化に大きく影響を与えると考えられます。

ナノスケールの水素秩序領域は150 K以下で存在していると考えています。この為、太陽系の多くの氷が強誘電体と思われます(図4)。冥王星はもとより、はやぶさ2が目標の候補としている小惑星帯にも強誘電性氷が存在する可能性があります。氷の「メモリー」は宇宙に広く存在しています。

今後、大強度陽子加速器施設(J-PARC)からのパルス中性子を用いて、「メモリー」の構造と物性の詳細を調べることを予定しています。この性質の理解を深めることで、惑星形成や物質進化の謎が解明されることが期待されます。

本研究は、科研費学術創成研究(19S0205)及び新学術領域研究(20103002)で実施されました。

図4 氷の「メモリー」(微小な強誘電性氷)の概念図と太陽系で強誘電性氷が存在可能な領域


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