【研究開発の背景と目的】

遷移金属化合物には、銅酸化物における高温超伝導やマンガン酸化物における巨大磁気抵抗効果など、有用な性質を示す物質が数多く存在していることが知られています。また、これらの物質では電子の間に強い相互作用が働いており、その理論的な取り扱いは非常に難しいことから、基礎科学的な観点からも数多くの研究が続けられています。その主役となるのが遷移金属原子中の電子(d電子)であり、物質中でのd電子の広がりの様子(軌道状態)が電気の流れやすさや、相互作用の伝播方向など、遷移金属化合物の性質を決める上で重要な役割を果たすことがしばしば見られます。従って、遷移金属化合物においては、軌道状態を識別した上でその振る舞いを調べることが、物質の性質を理解する上で不可欠となります。

遷移金属化合物中の電子の運動状態(エネルギーと運動量)を調べることができる実験手法として、共鳴非弾性X線散乱法が発展してきています。この手法は、最先端の放射光X線を用いることでようやく可能となった新しい分光法です。しかしながら、運動状態を調べる上での有効性は認められてきたものの、d電子の軌道状態を実験のみで区別することは困難であり、これまでは理論計算の助けが必要でした。

図1:遷移金属化合物中のd電子の軌道状態

【研究の手法】

今回、独立行政法人日本原子力研究開発機構(以下、原子力機構)量子ビーム応用研究部門の石井賢司研究副主幹らのグループは、光の持つ重要な特性である偏光に着目し、共鳴非弾性X線散乱における偏光特性を調べることで軌道状態を識別することができるのではないか、と考えました。

そこで、まず、X線の偏光状態を分離して検出することができる偏光解析装置を製作し、大型放射光施設SPring-8の原子力機構ビームラインBL11XUに設置されているX線非弾性散乱分光器にとりつけました。SPring-8の蓄積リングから出てくる放射光X線の偏光方向は良くそろっているので、それをそのまま試料に入射し、実際の実験では試料により散乱された側のX線の偏光特性をこの偏光解析装置により調べることになります。偏光解析実験の概念図を図2に示します。

一方、試料面では、電子の複数の励起状態を見るため、d電子軌道状態が整列した銅フッ化物KCuF3を選択しました。単結晶の精度が実験の精度にも影響することから、KEKの村上洋一教授らはブリッジマン法6)にて高品質の単結晶を育成しました。

図2:偏光解析実験の概念図

【得られた成果】

測定で得られた共鳴非弾性X線散乱スペクトルの一つを図3に示します。赤丸と青丸が実験データで、それぞれ図2に示した散乱X線の赤と青の偏光状態に対応しています。図3には、対応するエネルギー位置にd電子軌道状態もあわせて示しています。(0 eVにある軌道状態をエネルギーの基準に取っています。)

図3:銅フッ化物KCuF3の共鳴非弾性X線散乱スペクトル

KCuF3の軌道状態を変える散乱は、スペクトルの1.0 eVから1.5 eV辺りに観測されます。赤色のデータで示す偏光条件では1.4 eVにピーク構造があり、図の赤い矢印で示した軌道状態の変化に対応します。一方、青色のデータでの偏光条件では、1.4 eVに加えて、1.0 eVにも散乱強度があり、二本の青い矢印で示した二種類の励起が同時に観測されていることがわかります。即ち、1.0 eVの励起と1.4 eVの励起は共鳴非弾性X線散乱において異なる偏光特性を持っており、それを調べることで二つの電子励起状態を識別できるということになります。さらに、この偏光特性は共鳴非弾性X線散乱の散乱過程を考えた理論モデルでよく説明できることもわかりました。

【今後の予定】

本研究は、共鳴非弾性X線散乱における散乱X線の偏光特性を世界で初めて調べることに成功し、この手法がこれまで不可能であったd電子の軌道状態を変える励起の識別に有効であることを示したものです。一般に、光の偏光特性と電子の軌道状態の持つ対称性とは厳密に結びついていると考えられており、今後、共鳴非弾性X線散乱の偏光特性を調べることで、理論計算に頼らず実験のみから物性に関わる電子軌道状態を決定できるようになり、さらには、超伝導や磁性など遷移金属化合物の物性発現機構解明が加速されると期待されます。


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