国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構 バックエンド研究開発部門 人形峠環境技術センター

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日本原子力研究開発機構
バックエンド研究開発部門
人形峠環境技術センター

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岡山県苫田郡鏡野町上齋原1550番地
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人形峠の名の由来/歴史

ウラン発見

鏡野町上齋原(旧上齋原村)の人口の動きは、時代の流れをはっきりと示しています。 岡山大学の人たちが調べたところによりますと、江戸時代末期の文久元年(1861年)には、 村民はみんなで499人、戸数は120でした。それが、明治以降の富国強兵政策や「産めよ増や せよ政策」のせいで、しだいに増えていきました。
明治十三年「(1880年)には510人、同三十五年 (1902年)には941人、そして大正元年(1912年)には、1000人の大台を超えて 1196人となりました。
大正五年(1916年)には1299人、昭和五年(1930年) には1637人に達しました。しかし、そのあと、じわじわと減り始めます。製鉄業がダメになり、 木工も振るわなくなったからでしょうか。昭和十年(1935年)1485人、同十五年 (1940年〉1412人。いちばん多かったころに比べて200人も減りました。

上齋原の木工品
上齋原の木工品
しかし、第二次大戦が終わった昭和二十年(1945年)には、 一挙に600人もふえて1819人となりました。都市がアメリカ軍の空襲で焼かれ、住む家 を失った人たちや、満州、朝鮮、台湾などへ行っていた村の出身者たちが、どっとふるさとの 上斎原村へ戻って来たからでした。
1819人。これは、この山奥にとって、記録的な数字でした。 しかしながら、都市の復興が進むにつれて、再び村を出て行く人たちがふえて来ました。
昭和二十三年 (1948年)1640人。三十年(1955年) 1628人。終戦直後に比べて、すでに200人も滅っていました。村の老人たちはぼやいてい ました。「若いもんが村から出て行くのは、なんとさびしいもんじゃのう」

そんなとき、ビッグ・ニュースが村に飛び込んで来ました。 人形峠でウランが発見された、というのです。村びとたちは、びっくりしました。 「ほんまかえ」  日本は昭和二十九年(1954年)から「原子力ブーム」 に見舞われていました。原子爆弾のあの巨大なエネルギーを平和目的に使うのだ、というので、 みんなが、少しばかり浮かれていました。全国のあちこちで「原子力平和利用博覧会」が開かれ、 多くの人が見に行きました。まさに「ネコもシャクシも原子力」といった状況でした。 「日本も早く原子力をやらないと、バスに乗り遅れてしまうぞ」と、えらい先生たちが唱え 国民の多くも「そうだ、そうだ」と、手をたたいていました。
原子力といえば、なにはさておき、まずウランです。ウランなしでは、 「火のないコタツ」も同然です。「原子力だ、原子力だ」と騒いでみても、火種のウランがなくては、 どうしようもありません。
というわけで、通産省の地質調査所が、さっそくウラン探しを始めま した。調査所が最初に目をつけたのは、中国地方の山地でした。
ウランは花こう岩のなかに多く含まれている、というのが常識でした。 中国地方の山は、大部分が花こう岩で出来ています。だから有望なのです。
昭和二十九年(1954年)八月に、岡山大学の逸見助教授たちが、 倉敷市郊外のタングステン廃鉱・三吉鉱山を調べて、ウラン鉱石の発見。昭和三十年 (1955年)八月には地質調査所自身が鳥取県倉吉市の小鴨鉱山でウラン鉱徴の発見をしました。それで、同調査所は、日本ヘリコプター輸送会社の双発飛行機をチャーターし、 放射線を調べるシンチレーション・カウンターという測定器を積んで、昭和三十年(1955年) 九月、まず、空からウランを探すため、鳥取県と岡山県北部の上空を飛び回ったのです。
しかし、飛行機では、日本のように山と谷の連続からなる地形では 高度が一定でなく、どこにウランの鉱脈があるのか、くわしいことは、わかりません。
そのため「ジープで走り回って調べよう」ということになりました。 ジープにシンチレーション・カウンターを積み込み、山のなかを走り回ろう、というのです。

「そのころの山道は、舗装されていませんでしたから、 ジープはガタガタゆれますし、ホコリがもうもうとたって、探査は相当な難行苦行でしたよ」
 探査班の一員だった高瀬博さん (原子力機構OB) は、当時をふり返って、そう話しています。
 連日の長距離ドライブで、へとへとになっていた探査班の人たちが、 突然、興奮し、顔を輝かせたのは、昭和三十年(1955年)十一月十二日の日暮れどきでした。
「きょうは、これくらいで引きあげようや。くたびれたよ」
 そう話しながら、人形峠にさしかかったとき、カウンターが、 急に「ピッ、ピッ、ピツ」と大きな音を立て始めたのです。
「おやっ」 高瀬さんたちは、顔を見合わせました。それまでに聞いたことのないほどの大きな音だったからです。
「ちょっとバックだ」
 ジープをゆっくりとバックさせると、カウンターの音がだんだん強く なり、そして再び弱くなって行きます。ジープを前進させたり、後退させたりして、音が最大になる ところを探します。
「ここらだ。ストップ」
ウラン探査ジープ
ウラン探査ジープ

高瀬さんたちは、ジープを降りました。夕暮れで暗いので、 手さぐりで岩石のサンプルを採集しました。それを、あくる朝、鑑定してみたところ、ふつうの 火山岩(安山岩)で、それには放射能はありませんでした。高瀬さんたちは、がっかりしました。
しかし、それであきらめたわけではありません。数日、 再びそこを訪ねて、表土を掘ってみますと、そこには、泥岩や砂岩、れき岩などの層が露出 してきました。明らかに水の底で出来た地層でした。カウンターを当ててみますと、カウンターは、 パチンコの玉が「大当たり」の穴にはいったときのような、はでな音をたてました。
「やったぞ。ウランだ」
「まちがいない。こいつは、ウラン鉱だ」
鉱床の一部が地表に出ているところを「露頭」といいますが、 それは、まぎれもなく、ウラン鉱床の露頭でした。しかも、それまでだれも予想しなかった水成岩 (海や湖などの底に土砂や石こうが積もって出来た岩)の鉱床でした。「大規模な鉱床が地下に 広がっているにちがいない」と、高瀬さんたちは、希望に胸をふくらませました。 しかし、この発見は、しばらく公表されませんでした。 もう少しくわしく調べて、ウランの鉱床であることを、しっかり確認してからでないと、 世間の人たちをまどわすことになるからです。
「人形峠にウランがある」という話が地元に広まったのは、 昭和三十一年(1956年)になってからでした。
「へぇ-人形峠でウランが出るそうな」
 村は、ウランの話で持ちきりとなりました。

雪の中の探鉱
雪の中の探鉱
坑道入口にて
坑道入口にて
坑道入口
坑道入口

(岡山県昭和58年3月発行「私たちとウラン」より。 役職名は58年当時のままにしています。)