【研究の背景と経緯】

スピン流とは、電子の自転的性質(スピン)の流れのことです。近年のナノテクノロジーを利用して、ナノスケール(10億分の1メートル)に物質を加工することで、スピン流を利用することができます。スピン流は、エレクトロニクスにおける電流と対比され、スピンを用いた次世代技術スピントロニクスにとって不可欠です。

効率よくスピン流を流すためには、スピン流を遠くまで運んでくれるキャリアを見つける必要があります。物質中には準粒子注4)と呼ばれる様々な粒子が存在しており、いくつかの準粒子がスピン流のキャリアとなることが知られています。たとえば、金属中では伝導電子がスピン流のキャリアとなります。

磁石におけるスピン流は、これまでマグノン注5)という準粒子が担ってきました。マグノンによるスピン流は絶縁体ですら伝送できるという特徴があり、基礎と応用の両面から研究されています。ところが、マグノンが存在するためには磁石中のスピンの向きが規則正しく配列する(磁気秩序がある)必要があります。この磁気秩序のために、実際の物質中ではマグノンをつくるために大きなエネルギーが必要となってしまうといった問題がありました。今回の研究では、磁気秩序を必要としないマグノン以外の新たなキャリアを探索しました。

スピンの向きがたえずランダムに時間変化するにもかかわらず、スピンの情報を遠くまで伝えるにはどうすればよいでしょうか?本研究グループは、スピン液体注6)と呼ばれるスピン状態に注目しました。スピン一つひとつと磁石全体のサイズの両方を極限まで小さくすると量子ゆらぎが強くなってゆき、磁気秩序が消えてしまうことがあります。この状態がスピン液体状態であり、スピンの情報が遠くまで量子ゆらぎで伝わる場合があります。典型的なスピン液体は、スピンを一列に並べたときに生じます。このような特殊な状況では、スピンの向きがたえず揺らいでおり、この揺らぎは一見すると無秩序ですが、実は離れたスピン同士で“お互いの向きを知ったまま”揺らいでいます。このスピンの情報を伝える準粒子はスピノンと呼ばれ、基礎物理の観点から長年研究されてきました。本研究では、このスピノンによるスピン流伝送の可能性を探索しました。

【研究の内容】

本研究では、Sr2CuO3という物質に注目しました。Sr2CuO3中ではスピンを担う銅イオンが1次元の鎖状に並んでいます。そのため、この物質はスピン液体の特性を示すことが期待され、事実スピノンが低温で存在することが先行研究で明らかになっています。(図1)

Sr2CuO3の鎖方向と垂直な面に白金(Pt)を製膜し、スピンゼーベック効果を測定しました。(図2)駆動されたスピン流は、隣接するPt膜に注入され、電圧として検出されます。この電圧の符号はスピン流が運ぶスピンの向きに依存し、スピンの向きが逆になればPt膜で測定される電圧の符号も逆になります。「常に揺らぐスピン液体と磁気秩序がある磁性体の違いを反映して、スピノンとマグノンは互いに逆向きのスピンを運ぶはず」という予想の下、実験を行いました。

測定の結果を図3に示します。温度に依存してスピン流の運ぶスピンの向きが反転するという結果を得ました。大きなマイナスの電圧が見出された温度でSr2CuO3はスピン液体状態であり、スピノンがスピン流のキャリアであることを示唆しています。さらに低温で電圧がプラスに転じるのは、反強磁性転移注7)によってSr2CuO3中のキャリアがマグノンに変わったことによると解釈できます。微視的な理論計算によっても、確かにスピノンとマグノンが互いに逆向きのスピンを運ぶことが示され、これによりスピノンはスピン流のキャリアになると結論づけました。

【今後の展開】

今回の測定によって、磁気秩序がなくても、スピノンを利用すればスピン流を伝送できることが明らかになりました。特に、1次元量子スピン液体の典型例であるSr2CuO3におけるスピン流の観測は、量子スピン液体の候補とされる広汎な物質群をスピントロニクスへと応用・展開する可能性を指しています。この物質群は磁気秩序がないために周囲の回路やデバイスに磁気的影響を与えず、かつ原理的には原子レベルまでダウンサイズ可能であるなど、これまでの物質では実現できなかった新たな特徴を備えています。スピノンを利用したスピントロニクス:スピノニクスとして、スピントロニクスへの貢献が期待されます。

【参考図】

図1

図1:Sr2CuO3構造の模式図。b方向にスピンを担う銅原子が一次元に並ぶ。

図2

図2:実験系の模式図。Sr2CuO3の銅原子が並ぶb方向に温度差をつけてPt膜に生じる電圧を測定する。

図3

図3:Sr2CuO3の測定結果。量子スピン液体状態(青色領域)において、低温になるほど大きな電圧信号が確認できる。また、ごく低温で、Sr2CuO3磁気相転移注8)にともなう電圧信号の反転が確認できる(緑矢印)。

【付記事項】

本研究成果は科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 総括実施型研究(ERATO)「齊藤スピン量子整流プロジェクト」、世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)などの一環で得られました。


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