【背 景】

素粒子の標準理論は素粒子が関与する様々な物理現象のほとんど全てを説明することができます。しかし、実験の測定精度が高くなるにつれて標準理論の綻びが見え始めてきました。標準理論の綻びは、未知の新粒子や相互作用があるためと考えることができ、さらに、それらの粒子は現代物理学の謎(暗黒物質の素性や物質が反物質より優勢な宇宙の起源)を解明する鍵の一つとなり得るとされるため、その検証には大きな期待が寄せられています。

ミュオンはスピンという地球の自転に似た物理的性質をもち、磁場の影響を受けるとスピンは回転し、その回転軸が磁場の軸の周りに円を描くような運動(歳差運動)をします。その影響の受けやすさを表す定数を「磁気能率」と呼びます。磁気能率のうち、異常磁気能率(g-2)と呼ばれる値は、標準理論から極めて精密に計算ができる効果であるのみならず、未知の物理現象による効果も顕著にあらわれ得ると考えられています。したがって、異常磁気能率を精密に測定することによって標準理論を超える「新しい物理現象」が発見できると期待されているのです。

ミュオンの異常磁気能率は、米国ブルックヘブン国立研究所のE821実験グループによって最も高い精度で測定されており、標準理論の予想値とわずかながら有意な差があることが報告されています。この差は非常に微小であるため、測定は高精度で行われなければなりませんが、今日まで他の実験では検証されていません。このE821実験グループの手法は、ミュオンの運動量拡がりが大きいため、電場による収束が必要であり、この余分な電場の影響による系統誤差を抑えるために、特定の運動量で測定する必要がありました。一方、本研究の手法によれば、室温という低い温度でミュオンを生成することで、ミュオンの運動量拡がりが極めて小さくなります。このため電場による収束が必要なく、測定装置デザインが特定の運動量に縛られないという利点があり、米国の実験グループと相補的な検証ができると期待されています。

また、本研究の手法では同じ実験データを用いて、電気双極子能率(EDM)も測定できます。EDMがゼロでないことが発見されれば、時間反転対称性が破れているということになり、物質が優勢である現在の宇宙の成り立ちを解明する大きな鍵となるため、この値の精密な測定も重要です。

【研究内容と成果】

本研究では、以下のようなこれまでにない新しい手法により真空中への室温ミュオンの生成を実現しました。

室温程度の低い熱エネルギーしか持たないミュオンを作るためには、まずミュオンビームをシリカエアロゲル標的に打ち込んでミュオニウムを生成する必要が在ります。高精度測定のためには、この超低速ミュオニウムが大量に必要ですが、これまでの手法では、ミュオンビームからミュオニウムを作る過程で、その収量が約0.5%にまで減ってしまうことが分かっていました。これは高精度測定を行う上での大きなボトルネックです。

そこで研究グループは、まず、ミュオンビームをシリカエアロゲル標的に打ち込み、生成されるミュオニウムの数を測定する実験を行い、無加工のシリカエアロゲル標的で行った測定の結果から、ミュオニウムがシリカエアロゲル内で拡散する距離を求めました。そして、その距離と同じオーダーの大きさ、ピッチの穴を開ければ、ミュオニウムが壊れる前にその穴から真空中に出る確率が上がると考えました。いろいろな加工方法を試した結果、理化学研究所の大石裕協力研究員が提案・実施した、レーザー加工法がシリカエアロゲルに規則的にしかも深い穴をあけるのに最も適していることが分かりました(図2)。

その結果、レーザー加工を施す前後で、ミュオニウムの生成量が約10倍に増加することが明らかになり(図3)、先行して行われた米国のBNL E821実験の検証が可能な統計精度を出せるレベルの大量のミュオンが生成できることが分かりました。

これまで、ミュオニウムを生成して、超低速ミュオンを得るには、約2000度の高温に熱したタングステンからの放出を用いる方法が、まずKEKで、その後理研RAL支所のミュオン実験施設で開発されてきましたが、温度が高いとビームが広がりやすくなるため、異常磁気能率の実験に用いる場合、効率の悪さが問題となってきました。このため、常温でも高温タングステンと同等かそれ以上にミュオニウムを生成できる物質が得られたことは、大きな意義があります。

【本研究の意義、今後への期待】

超低速ミュオンを用いた測定方法が確立できると、ミュオン異常磁気能率のズレおよび電気双極子能率を従来とは全く異なる形で検証することができます。ミュオン異常磁気能率のズレの有無が検証できれば、E821実験の結果を支持して標準理論を超える物理現象の存在の有無を予言する、あるいは逆に測定の範囲では存在しない、という結論を導くことができます。今回の結果によりJ-PARC ミュオン g-2/EDM実験の実現のための大きなマイルストーンが達成されたと考えられます。今後は、シリカエアロゲル表面のレーザー加工時に、穴の径の大きさ、ピッチなどのパラメータを調整し、実験手法を最適化して、収量のさらなる増加を目指します。本研究の成果により、超低速ミュオン顕微鏡開発においても、単純計算で数十倍の面積集光効率向上をもたらすことが同時に期待されます。ミュオンビームの高性能化・高強度化を通じて、物質・生命科学領域における極微試料、微細構造研究や表面界面研究を飛躍的に広げる可能性を秘めた基盤技術研究です。


※なお、本研究は文部科学省 科研費新学術領域研究「超低速ミュオン顕微鏡が拓く物質・生命・素粒子科学のフロンティア(代表者 鳥養映子)の助成を受け、ビクトリア大学、独立行政法人理化学研究所、東京大学、大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)、千葉大学、高麗大学、TRIUMFカナダ国立素粒子原子核研究所の共同研究として実施されました。


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