【研究開発の背景と目的】

生命活動の基本は、外界からの様々な刺激に対して細胞内部の構造を変化させながら対応することにあります。細胞は、すべての生物を構成する基本単位であるので、放射線による影響など、外界からの様々な刺激に対して応答する細胞内の構造とその変化を明らかにすることは、様々な生命現象を解明するための極めて重要な情報を提供します。しかし、その実現には、生きている細胞の内部構造を詳細に観察する必要があります。

今まで、生きている細胞の観察には、光学顕微鏡が利用されてきましたが、可視光を光源とするため、その解像度は使用する光の波長によって数百ナノメートルに制約され、細胞の内部構造を詳細に観察することはできませんでした。より高解像度の観察には電子顕微鏡9)が利用されますが、電子顕微鏡で細胞全体をそのまま観察することは難しく、薄い切片にして観察する必要があります。一方、最近研究が進んできた軟X線顕微鏡は、細胞を取り巻く水にはほとんど吸収されず、細胞内の構造を反映する炭素には吸収されやすいと言う性質を持つ軟X線を利用します。可視光よりもはるかに波長の短い軟X線を使用するため、原理的に高い解像度で細胞内部の微細構造を直接観察することが可能で、「夢の顕微鏡」として期待されています。しかし、これまでは、軟X線の輝度が十分でないために数秒から数分という長い露光時間を必要としたため、細胞の像がぶれないようにするために細胞を凍結や固定することにより観察していました。そこで私達は、生きた細胞の動きが静止して見える短い時間で細胞を瞬時に撮像できる技術を開発し、生きた細胞の内部構造を撮像することにチャレンジしました。

【研究の手法】

日本原子力研究開発機構の保有する高強度レーザーを制御する最先端技術とX線発生に関する技術力を活用してレーザープラズマ軟X線顕微鏡を開発しました。図1.に概要を示します。図1.(a)は装置の外観写真で、顕微鏡装置本体と発生した軟X線を計測するための様々な計測器で構成されています。図1.(b)は装置の内部の写真です。光源部と試料部で構成され、高強度レーザー(赤い矢印)を集光レンズによって金属薄膜に集光することにより高輝度軟X線(青い矢印)を発生させます。図1.(c)はレーザープラズマ軟X線顕微鏡の原理を示したもので、高強度レーザーによって生成されたレーザープラズマから発生した軟X線が培養液中の細胞に照射される様子を示しています。

図1

まず、高強度レーザーを金属薄膜表面に集光させ、レーザープラズマを生成することにより軟X線を発生させます。厚さ20ナノメートルという極めて薄い金属薄膜を使用することによりエネルギーの拡散を抑え、非常に小さな領域に効率よくレーザーのエネルギーを集中することにより高輝度軟X線を発生させました。図2.に厚さ50マイクロメートルの金属板と厚さ20ナノメートルの金属薄膜にレーザーを集光した場合の軟X線源像を示します。この写真からわかるように、極めて薄い金属薄膜を使用することにより軟X線源の高輝度化が実現できることがわかりました。

図2

次に、発生した高輝度軟X線を、X線感光材上に直接培養した細胞に照射します(図1.(c))。高輝度軟X線を細胞に直接照射する密着法10)は、幾つかあるX線顕微鏡技術の中で唯一生きている細胞の瞬時撮像が可能な技術です。細胞を真空中に配置する必要があるため、真空中で生きた細胞を長時間保持することが可能な試料保持ホルダーも開発しました。

【得られた成果】

これらの技術開発の結果、1ナノ秒以下の瞬時撮像によって生きている細胞の軟X線像の取得に成功しました。図3.(a)に生きている細胞(精巣ライディッヒ細胞11))の軟X線像を示しました。図3.(b)は図3.(a)の一部を拡大した写真で、細胞核と細胞核内のヘテロクロマチン12)様構造が明瞭に観察できていることがわかります。また、核膜の部分を拡大した図3.(c)の写真において、二つの矢印の先端に挟まれた核膜のもっとも薄い部分の厚さが約90ナノメートルであることから、少なくとも90ナノメートルの解像度が実現できていることがわかりました。

図3

さらに、細胞の内部構造やその変化を観察するためには、生きている細胞の撮像が出来るだけでは不十分で、軟X線顕微鏡でとらえた像に何が写っているのかを正確に特定することが必要です。そこで私達は、蛍光顕微鏡を使った細胞内器官の位置を特定する方法を組み合わせることで、軟X線顕微鏡で撮像した細胞の内部構造を正確に特定しました。図4.は、ミトコンドリアを染色した精巣ライディッヒ細胞の蛍光顕微鏡像(a)と軟X線顕微鏡像(b)を示しています。蛍光顕微鏡像では、染色されたミトコンドリアだけが蛍光を発していますが、軟X線顕微鏡像では、全ての細胞内構造が映し出されています。図4.(c)は、蛍光顕微鏡像と軟X線顕微鏡像を重ねた像で、二つの像が非常に良く一致していることがわかります。図4.(d)は、軟X線顕微鏡像の一部を拡大したもので、ミトコンドリアと細胞骨格が明瞭に確認できます。この結果は、ミトコンドリアが細胞骨格に結びついているというこれまでの推論を支持する画像を、固定や染色などの人工的な処理をしていない生きた細胞の観察で直接取得することに初めて成功したものです。このように、生きている細胞の生の状態の詳細な内部構造を誰も体験したことがない高解像度で直接観察する手段を世界で初めて開発することに成功しました。

図4

【波及効果】

レーザープラズマ軟X線顕微鏡の開発は、放射線を照射された細胞内の構造変化の観察による放射線影響の解明や、細胞の免疫機能発現、細胞内情報変換機構、たんぱく質の合成、染色体の遺伝情報の伝達等、広く生命現象を細胞レベルで理解する研究に役立つことが期待できます。さらに、これらの基礎的な分野での利用だけでなく、癌細胞や神経細胞の変性過程等、病理学や薬理学などの医療の分野への利用も期待できます。本装置は細胞内の構造変化を観察することを目指して開発を行いましたが、将来的には分子レベルから組織レベルにまで対象を広げることにより、これまでも光学顕微鏡によって細胞が、電子顕微鏡によってウィルスが発見されたように、軟X線顕微鏡という新たな技術の開発は、生命の起源の解明にせまる、多くの新しい知見をもたらしてくれると期待できます。


戻る