1.背景

近年、電子の持つスピンという特性を積極的に用いた新しい電子素子の開発が急速に進んでおり、こうした研究分野はスピントロニクス(スピンエレクトロニクス)と呼ばれています。その中心となる材料は強い磁気を持つ強磁性体(磁石)で、例えば、2枚の強磁性体層に極薄の絶縁体層を挿入したトンネル磁気抵抗素子※6は、ハードディスクドライブの再生ヘッドや磁気ランダムアクセスメモリーのメモリー機能部に実用化されています。これらスピントロニクス素子は、電荷の流れ(電流)とスピンの流れ(スピン流)の両方を利用しています。

一方、スピンホール効果※7や非局所的手法※8図1)を用いると、スピン流だけを生成することができます。スピンの緩和時間は電荷の緩和時間よりも数桁長いために、スピン流を利用することでエネルギー損失の少ない電子素子の実現が期待できます。研究グループはこれまでに、スピン流やスピン蓄積を用いた磁気蓄積素子を開発し、白金ナノ細線が大きなスピンホール伝導率※9を持つことを発見していました(2007年4月12日プレス発表:http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2007/070412/detail.html)。しかし、スピンホール効果を用いたスピン流の生成効率は数%程度であり、この磁気蓄積素子の出力信号はせいぜい1μV程度です。また、強磁性体/非磁性体接合を用いた非局所的手法の場合、スピン抵抗の不整合が問題となって、非磁性体中への効率的なスピン注入が困難でした。一方、高抵抗なトンネル接合を用いた非局所的手法では、注入効率は向上できますが、微小電流しか流すことができないために、やはり少量のスピンしか注入できません。このために、非局所的手法においても、出力信号はせいぜい1μV程度、磁気蓄積量として0.01T程度と小さく、実用化への大きな問題となっていました。

2.研究手法と成果

研究グループは、スピン抵抗の不整合を解消し、スピン注入に最適な接合抵抗を得るために、強磁性体であるパーマロイ(鉄とニッケルの合金)と非磁性体である銀の間に、酸化マグネシウム層を挟んだナノサイズの磁気蓄積素子を作製しました(図1)。一方の強磁性体電極(パーマロイ細線)に電圧を加えて非磁性体(銀の細線)に電流を流すと、スピンを非磁性体中に注入することができます。注入・蓄積したスピンは非磁性体細線に沿って両側に拡散し、左側部分には電流とスピン流の両方が、右側部分にはスピン流だけが現れます。この非磁性体細線中に蓄積しているスピンの量は、もう一方の強磁性体電極を用いて計測できます。

研究グループは、作製した素子を水素3%、窒素97%の混合ガス中で400℃、40分間の熱処理を施し、酸化マグネシウム膜厚を変えることで接合界面抵抗を制御しながら、スピン注入効率を調べました。その結果、界面抵抗値が0.2Ωμm2程度の酸化マグネシウム層を用いると、強磁性体金属と非磁性体金属のスピン抵抗の不整合が解消され、出力信号が最大値で一定になることが分かりました(図2)。この界面抵抗値は一般的なトンネル接合よりも2桁ほど低く、大きな電流を流すことが可能です。膜厚6.2nm(0.2152Ωμm2)の酸化マグネシウムを用いると、3mAの電流で200μV以上の出力信号を実現しました(図3)。この出力電圧は、磁気蓄積量としては有効磁場換算で2T程度にもなり、従来の100倍以上にもなる世界最高の値です。

さらに、銀の細線中のスピンは、同じ非磁性体であるアルミニウムと比較して10倍以上も高速で、6μmもの距離を拡散できることを観測しました(図4)。これらすべての実験結果は、素子構造を考慮した1次元のスピン拡散伝導モデルを用いた理論値と一致することも確認しました。

3.今後の期待

今回、酸化マグネシウムを用いた磁気蓄積素子で、出力信号の100倍以上の増大に成功しました。さらに、出力信号の理論値と実験結果が一致することを確認し、磁気蓄積素子の設計手法を確立しました。開発した低抵抗な酸化マグネシウム層を利用して、強磁性材料や素子サイズ、構造などを最適化すると、さらなる出力信号の向上が可能になります。磁気蓄積素子は、次世代ハードディスクドライブの再生ヘッドなど、高感度かつ高空間分解能の磁気センサーとしての応用が期待されており、今回の成果はその開発に貢献するものです。また、数μm以上の距離をスピンが拡散した現象は、スピン流がエネルギー損失の小さい情報伝達手段として有望なことを示しています。今後、外部信号によるスピンの制御手段を開発することで、スピントランジスタやスピン演算素子などの実現も期待されます。


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