補足説明

1.背景

私達が使用しているパソコンのCPU、メモリやトランジスタなどの電子デバイスの多くは、素子構造の微細化技術の発展と共にその性能を高め続けています。しかし、素子構造が分子・原子スケールに到達するとされる近い将来、これまでのエレクトロニクス技術には限界が訪れると言われています。この問題に対するブレークスルーとして、電子の持つ「電荷」に加えて「スピン」の向きを同時に制御して輸送・識別することで革新的電子デバイスを実現しようとする研究が盛んに行なわれています。電子のスピンを活用して情報処理・伝達を行なう新しいエレクトロニクス技術は「スピントロニクス」と呼ばれ、磁気ランダムアクセスメモリー6)の発展やスピントランジスタ7)の実現などにより将来の高度通信・情報社会の中枢を担うことが期待されています。

スピントロニクス材料の研究は、これまで無機材料について行われてきましたが、今世紀に入り、有機分子と遷移金属からなる系(有機分子-遷移金属系)が磁気抵抗効果を示すことが報告されるようになり、有機分子によるスピントロニクス「分子スピントロニクス」として注目を集めています。分子スピントロニクス材料は、有機分子が主に炭素などの軽元素で構成されていることと関係して長い時間や距離に渡って電子のスピンの状態(上向き、下向き)を保持しながら輸送(スピン輸送)する能力に優れることや、有機分子の特徴である光や電界などの様々な外的作用への応答性を利用してスピン輸送を制御できる可能性が期待されています。このようなスピンデバイスの実現に向けた第一段階として、有機分子を用いた材料で大きな磁気抵抗効果を得ることが最優先の課題でした。しかし、これまでに報告された炭素ナノチューブや純粋な有機分子と磁性遷移金属からなる材料の磁気抵抗効果は、無機材料と比較して小さく、分子スピントロニクスの研究に大きな進展は見られませんでした。

これに対して、原子力機構と東北大金研は2006年以降に、フラーレン(C60)-コバルト(Co)化合物中にナノサイズのCo結晶粒(Coナノ粒子)が分散した構造(グラニュラー構造)のC60-Co薄膜(図1)が、低温で最大90%に達する巨大トンネル磁気抵抗(TMR)効果を示すことを発見しました(図2)。これは、これまでに報告された有機分子-遷移金属系やグラニュラー構造の無機材料での磁気抵抗効果の中でも特に大きな効果です。C60-Co薄膜の磁気抵抗率の大きさは、TMR効果の理論モデルについて、Co結晶の電子のスピン偏極率から期待される値(14%)よりも著しく大きく、特異なスピン輸送現象の原因究明が待たれていました。

2.方法

本研究では、放射光を用いたX線吸収(XAS)、及びX線磁気円偏光二色性(XMCD)分光により、C60-Co薄膜の電子・スピン状態の分析を行いました。XAS分光とは、X線を試料に入射した際のX線の吸収強度の波長に対する依存性を観測し、対象となる物質の電子状態を調べる手法です。XMCD分光とは、円偏光したX線を試料に入射して、偏光方向と試料に加える磁場の向きの相対方位を変化した際に生じるX線の吸収強度の差(XMCDシグナル)を観測する手法です(図3)。XMCDシグナルを解析することで、対象となる物質中の電子のスピンの存在やその偏り具合を知ることができます。

XAS、及びXMCD分光実験は、大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK-PF)のビームライン7A、及び分子科学研究所極端紫外光施設(UVSOR-II)のビームライン4Bで行いました。

3.成果の内容

C60-Co薄膜のXAS分光実験の結果、図4(a)に示すように、薄膜中のC60-Co化合物は複数の成分(赤線)からなる特有なX線吸収スペクトルを示すことが分かりました。C60単体やCo単体ではこのようなスペクトルは観測されず、これらの成分は、C60分子にCo原子が結合することでCo原子の電子の軌道が変化して生じたものと解釈されます。さらに、XMCD分光実験の結果、図4(b)に示すように、C60-Co化合物がXMCDシグナルを示すことが分かりました。観測されたXMCDシグナルは、C60-Co化合物のX線吸収スペクトルで見られた特定のピーク(図4(b)中の青点線)に対応することが分かりました。これらの結果により、C60-Co化合物中に局在する電子の状態としてC60分子とCo原子が結合した状態に由来するスピンが存在することが明らかになりました。

これらの結果を踏まえて、TMR効果の理論モデルにC60-Co薄膜に磁場を加えた際のC60-Co化合物に局在するスピンの向きの変化が、Coナノ粒子間を流れる電子(伝導電子)のスピン偏極率に影響を及ぼす過程を考慮すると、伝導電子のスピン偏極率が100%(スピンの向きが一方に偏っている状態)に近い場合に、磁気抵抗率の計算値が実験で得られた磁気抵抗率と一致することが分かりました(図5)。このことは、電気伝導に関わる電子のスピン偏極状態にC60-Co化合物中の局在スピンが強く影響を及ぼすことを示しています。本研究により、C60-Co薄膜の巨大TMR効果へのC60-Co化合物の関与が明らかになりました。

4.成果の意義

本成果は、有望な分子スピントロニクス材料として国内外で研究が盛んになりつつある有機分子-遷移金属系材料のスピン輸送現象(ここでは、磁気抵抗効果)への有機分子性領域(ここではC60-Co化合物)の関与を初めて実験的に明らかにしたものです。これは、分子スピントロニクス材料の特性制御や機能設計の指針として、有機分子性領域の電子的構造やスピン状態を積極的にデザインすることの重要性を示唆するものであり、今後、分子スピントロニクス研究の指針として広く波及することが期待できます。


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